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介護のコト

2022年7月 4日 (月)

ケーンの介護日記 その8~あれから~

 前回の投稿からあっという間に3ヶ月が経ってしまいました。

 今は初夏、7月。母が認知症の宣告を受けたのが3月10日だったので、実時間では4ヶ月になります。

 あれから、色々ありました。

 4月に入ると、正式に要介護認定の決定通知が来ました。結果は、「要介護1」。これをもとにケアマネさんが正式なプランを提示し、それに同意。Y事業所と介護サービス契約を結びました。

 まずは平日の日中に1回、事業所の職員に来てもらい、安否確認と健康状態のチェック(体温や血圧など)、そして雑談とレクリエーションで脳に刺激を与えてもらう、という形で始めました。

 レクリエーションは、簡単な体操と歌。「涙そうそう」とか「さくら」とかを一緒に歌うみたいです。

 そこからの母の回復はすごかった。

「ここは自分の家じゃない」

とか、

「兄ちゃんが二人いる」

なんていう幻覚、錯視はまったくなくなり、意識はクリアで、話す言葉もしっかりしている。そして暗く沈んでいた表情も程よくほぐれ、笑顔も見せるようになりました。

 正直、医師に「認知症は回復しない。悪化を防ぐ、という治療になる」と言われていたので、また幻覚や錯視がでるんだろうかと心配だったのですが、そんなことはありませんでした。

 認知症は回復します。

 恐るべきはあの、「どこに貼ってもいいよ」と言われた貼り薬。S病院から処方されている薬は、ほとんどが精神安定剤です。認知症のために処方されている薬は、その貼り薬だけ。皮膚から成分を吸収するんだそうですが、これが効果てきめんでした。

 もちろん、介護職員の訪問も一助になっているでしょう。適度に会話し、体を動かすことで脳に刺激が与えられる。

 今では、訪問だけでなく、たまに体調の良いときには事業所に行って、10人くらいのお年寄りと交流して帰ってきます。ただこちらはまだ回数が少なくて、慣れていない様子。行けば自分が一番若いそうで、ちょっと気後れしちゃうのかも知れません。でもみんな優しく接してくれるとのことなので、やがて馴染んでくれるでしょう。

 今、心配なのはレビー小体型認知症のもう一つの症状、パーキンソン症状です。

 こちらは良くならず、体のバランスを取るのが難しい様子。よくふらつくし、転びもします。

 母は農家の出なので、庭の畑いじりが好きなのですが、作業中に転んでしまって起き上がることができず、もがいているところを訪問してきた事業所の職員に発見された…なんてこともありました。

 つい最近では、家の中で派手に転んで頭を打ち、側頭部から流血して救急搬送されたことも。

 まだ母自身も、「今の体では、ここまでしか動けない」ということが脳でわかっておらず、つい無理な動作をしてしまって転倒してしまうようです。気をつけるように言ってはいますが、人間、「老い」を認めることは辛いですからね。母の気持ちはわからないでもありません。

 なので今、ケアマネさんに「歩くリハビリ」というメニューが介護サービスにないか、話し合っているところです。

 年齢や病状に合わせた体の動かし方、歩き方、杖の使い方…そんなことを練習できるサービスがあればな、と思っています。

 これからも母には、人の助けが必要でしょう。お金もかかる。

 でも、いいんです。

 母はこれまでがんばって働いて、私たち子供を育て、家計を支えてきた。そろそろ肩の荷を下ろして、自分自身のために生きてほしい。

 そのことをきっと、天上の父も望んでいるはず。

 息子、がんばります!!

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レト「レトもがんばるでち!!」

 うん、一緒に母さんを支えて行こうね、レト。

 

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2022年4月13日 (水)

ケーンの介護日記 その7~宣告の日 後編~

 レビー小体型認知症。

 病院で、医師から告げられた母の病名がそれでした。

 後でネットで調べてみると、レビー小体型認知症の症状として、大きく4つが挙げられていました。

 ① 物忘れや判断力、理解力の低下

 ② 「幻視」や「錯乱」、「妄想」

 ③ パーキンソン症状(動きが鈍い、手足の震え、転びやすいといった運動機能障害)

 ④ 抑うつ(意欲・食欲がわかない、気持ちが晴れない)

 なるほど、と思いました。これだったのか。パーキンソン病を疑っていた「歩行困難」や「転倒」は、レビー小体型認知症の症状の一つだったのか。そして物忘れや理解力の低下、幻視(医師は「錯視」と呼んでいました)。母はもうずっと前からうつ病を患って定期通院していましたが、それもまた、認知症の症状に繋がるのか。

 治療方法としては、根本的に治癒する方法はないものの、「薬物療法」と、運動療法などにより「脳に刺激を与えること」があるそうです。

 そこで医師は、母に、病院に併設しているデイケアへの参加を勧めました。

「よければこれから見学できますよ。担当の者に案内させますが、どうしますか?」

 医師の質問に、母はどう答えていいものか少し迷ったようですが、最終的には「はい。お願いします」と答えました。

 私には意外でした。

 母は歩行が難しくなり、季節が冬になったこともあって、もう数ヶ月、ほとんど外出していません。これまで接してきた相手は、同居している私とセキセイインコのレト、そして時々やってくる私の妹の一家だけ。うつ病で気分が落ち込み気味なこともあり、いきなりデイケアなどに参加するのは無理ではないかと思っていたからです。

 母は気が進まず、尻込みして、きっと断るだろう。

 そう思っていたのに、母は医師の提案を受け入れた。母がうんと言った以上、息子の私がダメだと言うわけにはいかない。

 そうして母と私は、担当の人に案内されて、デイケア施設へと向かったのでした。

 

 

 S病院のデイケア施設は、病院の隣にありました。2階建てですが、病院の規模にふさわしく、横に広い建物でした。

 3月とはいえ、北海道はまだまだ寒い。一度病院の外に出ると、冷たい風が頬を叩いてきました。5、6メートル先に、デイケア施設があります。案内の人に続いて玄関から中に入ると、ふわっと温かな空気が体を包みました。

「どうぞ。今はお食事時なので、みんなお昼を食べてます」

 案内の人の言う通り、もう昼食の時間でした。見ると玄関を入ってすぐが食堂のようで、参会者らしい人たちが食事の最中。みんなマスクはしていませんが、笑い声やおしゃべりは一切聞こえない。コロナ下なので、ここも「黙食」なのでしょう。

 それにしても…。

(多いな)

と、私は思いました。食堂の広さに比例して、食べている人も多い。ざっと見て、学校の一クラス分はいるのではないか。

「何人くらいいるんですか?」

「40~50人です。でも、2階にもいますから」

「2階にも食堂があるんですか!?」

「はい。1階とほぼ同じ構造です。2階のほうが少し狭いですけど」

 ということは、2階に同じだけ人がいるとしたら、参加者は100人近くいることになる。私は驚きました。人の多さそれ自体に驚いたことはもちろんですが、札幌市の隣とはいえ、いち地方都市の、いち地区に、こんなに多くの認知症患者がいるという事実にも驚かされました。

 超高齢化社会。その現実をまざまざと見せつけられた気がしました。私がうつ病で家に引きこもり、社会との繋がりを断絶している間に、世の中はこんなことになっていたのか。

「では、戻りましょうか。面談室で詳しいご説明をします」

 案内の人に促されて、母と私は病院へと戻りました。

 面談室に着いて着席すると、デイケア施設のパンフレットを渡されました。そして、施設についての説明を一通り受ける。

 おおまかな流れとしては、朝の集いがあって、それから午前の活動。12時から昼食と休憩があって、午後の活動へ。最後に茶和会があって、それぞれ帰宅。活動の内容はさまざまで、体操だったり、創作だったり、レクリエーションだったり。朝9時から夕方15時までの滞在となるようでした。

 それから、利用料金の説明。1回の利用料金はだいたい1,200円。例えば週に1日参加して場合は、約1,200円×4回で約4,800円になるといいます。そして利用にあたっての注意事項、利用申し込みの手続きと、説明はどんどん続いていきます。

「ちょ、ちょっと待って。まだ見学しただけで、参加すると決めたわけじゃ…」

 そう言いたくなりましたが、母が黙って聞いているので私も話を遮ることはしませんでした。

「…以上が、当院のデイケア施設の概要です」

 説明が終わると、診察室前の待合スペースに案内され、しばらく待機。すると、看護師長がやってきました。

「午後からケアマネさんとの打ち合わせがあるんでしたよね?」

「ああ、はい」

 そう言えば、看護師長には言ってあったのでした。今日の受診が終わった後、午後からケアマネジャーのOさんが来て、これから受ける介護サービスをどうするのか、本格的な打ち合わせがある、と。

「ケアマネさんにはこちらからも、デイケアの参加も検討されていると伝えておきます。それを聞いたら、ケアマネさんはデイケアのことも考えてプランを作成してくれるでしょう」

 そう言うと、看護師長は母と私を会計の窓口に案内しました。今日の受診はこれで終わり、ということか。

「あ、ちょっと待ってください」

 私は看護師長を呼び止めて言いました。確か薬は2週間分出すと医師は言っていたが、すると次回の受診はいつになるのか。

「特に予約は必要ありませんが、Y先生(今日診察してくれた医師)の診察は木曜日か金曜日の午前中になりますので、どちらかの日に…」

「それはちょっと困ります」

 私が母に市立病院からの転院を勧めた理由は二つあります。

 一つは母のパーキンソン病を疑っており、その検査・治療ができる診療科が市立病院になかったこと。そしてもう一つは、この病院は市立病院とは違い、土曜日も診察をやっていることです。

 市立病院は知ってのとおり公立の病院なので、週休二日制が徹底されており、土日はやっていません。今後も通院を続けるとなると、私が付き添うためには平日に休暇を取らなければならなくなります。3月については、上司と相談し、病院の受診から介護施設との打ち合わせ、市役所での要介護認定の申請など諸々あるのでたくさん休みます、とあらかじめ許可を取っていましたが、4月以降はそうはいきません。

 母には精神科と内科の受診が必要で、3月中には整形外科も受診させるつもりでいました。母は常々「膝が痛い」と訴えており、一時期鍼灸院に通ったこともありますが、症状は改善していない。なのになぜか病院にかかろうとしないのです。認知症の件の道筋が見えたら、そこを何とか説得して整形外科を受診させ、きちんと検査してもらおうと思っていたのです。

 とにかく、母のために動くなら3月中がチャンスでした。

 内科はいつも、月に1回、私と一緒に土曜日に受診しているから問題ないとして、整形外科はどうなるか。私としては、市立病院の整形外科を受診させるつもりでいました。土曜日にやっていないのは不満でしたが、別に私は市立病院が嫌いなわけではありません。むしろ、検査をするなら公立の大きな病院のほうが良いと考えているのです。

 仮に整形外科で定期的に治療が必要な何らかの疾患が見つかったとして、通院は2週間に1回が一般的だ。症状が安定してくれば1ヶ月に1回という形になるだろうが、初診からしばらくは2週間に1回となる可能性が高い。そうなると、4月以降、2週間に1回、二つの病院に母はかからなければならなくなる。それに付き添うには、どちらか一方は土曜日の受診である必要がある。でなければ私は、1ヶ月うちに2回×2病院で4日休暇を取らなければなりません。そんなペースで休んでいたら、あっという間に有給休暇を使い果たしてしまうし、職場にだって迷惑をかけてしまう。

 だから、土曜日でも受診できるS病院への転院を母に勧めたのです。

「何とか、次回から土曜日の受診になりませんか」

「…ちょっと待っててください」

 そう言って看護師長は医師と相談に行きました。そして戻ってくると、

「今日は初診ですから、まだ当面はY先生が診ます。安定してきたら主治医を変えることも考えますが、次回はY先生に診てもらってください」

と答えました。

 これは医師の判断だ。だから、ここで看護師長とこれ以上議論しても無駄だろう。それがわかっていたので、私もそれ以上の追及はやめました。

 仕方ない。当面はと言うんだから、いずれ土曜日になるだろう。それまでは、また上司に相談するしかないな。

 それから会計で支払いを済ませ、隣のカウンターで薬を受け取る。今では薬は院外薬局で受け取るのが普通ですが、この病院は院内で済ませられるのでした。しかも嬉しかったのは、薬の分け方です。以前までは薬はたくさんの袋に分けられていました。私ですら整理に難儀するくらいの量で、だから薬の種類を減らせないか医師に相談したのです。

 ところが見ると、袋は5種類しかない。朝食後、昼食後、夕食後、寝る前、そして貼り薬です。中を見ると、例えば朝に飲む薬は、全部が小さな透明の袋にまとめられていました。他もそう。飲む時は、その小袋を取り出して、中身を全部飲めばいい。いちいち袋を開けて、夕食後に飲むのはこの薬が2錠とこの薬が1錠…などど探してゆく必要がないのです。薬の管理が格段に楽になる、というより、もう管理する必要がない。

 これはありがたい配慮でした。さすがに認知症患者の治療に力を入れているだけはある。これだけでも、転院して良かったと思えました。

 こうして母と私は、長い長い午前中を終えて、帰宅したのです。

 

 

 午後、14時頃にケアマネジャーのOさんがやって来ました。

 すでにOさんはS病院からの連絡を受けており、それを踏まえて、3つのパターンのケアプランを作成してきました。

 ① 1週間のうち、全部を介護職員の訪問のみとするパターン

 ② 1週間のうち、半日(午後)だけY事業所(小規模多機能ホームY)に通所し、後は介護職員の訪問とするパターン

 ③ 1週間のうち、1日だけS病院のデイケア施設を利用し、後は介護職員の訪問とするパターン

「どれがいい、母さん?」

「うーん…どれがいいんだろう…」

 ここで私はあえて言いました。

「本音で、正直に言って? 本当にデイケア行くのでいいの?」

 私には一つの疑問がありました。

 母は医師に勧められた時、その場の雰囲気や話の流れで、断りたくてもできなかったのではないか、と。

 医師の手前、「はい」とは言ったが、本音では気が進まなかったのではないか、と。

 確信はありません。でも、今の母に大勢の、しかも知らない人たちの中に入っていく勇気はないのではないか。そう思えてならなかったのです。

「大事なことだよ? 本当に、正直なところどうなの?」

 少しの沈黙の後、母は言いました。

「本当は、気が進まない」

 やっぱり。

 私はほっとしました。

 危ないところだった。今、大勢の他人の中に放り込めば、きっと母の、認知症はともかく、うつは確実に悪化する。その確信がありました。私は医者ではありませんが、長年うつ病を患ってきた経験があります。

 うつ真っただ中にいる人間が、見知らぬ人間の集団の中に放り込まれるとどうなるか。周囲になじむ気力がなく、結果としてなじむことができず、なじめなかった自分がとてつもなく惨めになって悲しくなる。相手が楽しそうにしていればなおさらそうです。楽しげな周囲の人間と自分を比べて、その落差に絶望する。自分が嫌になる。そしてますます気持ちが落ち込んでいくのです。

 うつが悪化すれば、それに引きずられて認知症がひどくなるかも知れない。そうでなくとも、うつ症状だけでも、人は自分の命を危険にさらすのです。以前、母が自分が嫌になって精神薬を大量に飲み、自殺を図ったように。

 本音を聞けてよかった。

「今の母には、たとえ少人数でも、集団の中に入るのは無理だと思います。だから、最初は①のプランで始めさせてください」

 結論として、私はそう回答しました。

 Oさんも、

「たぶん、それがいいでしょうね」

と理解してくれました。

「もちろん、家族としては、いずれは家族以外の人とも触れ合って、楽しく交流してほしいと思っています。ただ、急ぎたくはない。スロースターターでいきたいんです」

「わかりました。では①で始めましょう。S病院のほうへは、私から連絡しますか?」

「いえ、明日、私が連絡します。お詫びも言いたいし」

「そうですか。それではお願いします」

 それから少し雑談した後、ケアマネジャーOさんは帰っていきました。

 時刻は夕方の4時を回っていました。私は夕食を買いに出掛けなければなりません。

「疲れたね、母さん」

「うん」

「これから夕飯買ってくるから、母さんは寝てなよ。食べるのは6時でいい?」

「いいよ」

「じゃあ、買い物行ってくる。レト、行ってくるからね」

「ぴよ!!」

「ご飯が終わったら遊んであげるからね。それまでお利口にしてるんだよ」

「ぴよ!! ぴよ!!」

「いってきまーす」

 そうしてレトの声を背に、私は買い物に出掛けたのでした。

 今日もパスタにしようかな。

 そんなことを考えながら。

 

~つづく~

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レト「はやくだして、でち!!」

 

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2022年4月 9日 (土)

ケーンの介護日記 その6~宣告の日 前編~

 3月6日の日曜日は、大きな事件もなく、平穏に過ぎていきました。

 ただ、母の言葉の端々に、認知症を思わせる要素が含まれていました。

 例えば、1階の居間で夕食時。

「この家、わたしと兄ちゃんの二人暮らしだった?」

「うん、父さんが亡くなって、M子(妹の名前)が結婚してからはずっと俺と母さんの二人だよ」

「本当に? 2階に兄ちゃんいない?」

「え? 俺は今ここにいるでしょ。母さん、もう1人息子生んだ覚えないでしょ?」

「うん…。そっか」

 あるいは、寝る前。

「ねえ、父さんはどこ?」

「父さんはもうずっと前に亡くなっていないよ。ほら、仏壇あるでしょ?」

「ああ…これ、父さんの仏壇なの」

 認知症の人の言動には、本人なりの理由がある。だからいきなり「何言ってるの?」と跳ねのけてはいけない。ちゃんと話を聞いて、答えを返してやることが大事。ネットにそんなことが書いてあったことを思い出しながら、私は母に応対していきました。

 それでも、その日はいつもより食欲があり、もともと量は少なめとはいえ、買ってきたコンビニ弁当を完食したので、少し調子いいのかな、なんて思っていました。

 そして翌日、月曜日。

 朝、私は母に何度も念押しするように言いました。

「今日から、Y(小規模多機能事業所の名前)のOさんがお昼に来るからね。ほら、この人」

 私は、壁に張ったYの職員一覧(写真付き)を指します。

「…この人が、Oさん?」

「そう、Oさん」

「何をしに来るの?」

「母さんの様子を見に来るんだよ。と言っても、難しい話をしに来るわけじゃないから。お元気ですか、って来るだけだから、母さんは気楽に構えてていいからね」

「じゃあ、お茶とか出したほうがいいかな」

「そんなにかしこまったお客さんじゃないんだけど、うーん、まあ、出してあげたら喜ぶんじゃないかな」

「わかった」

 そして、こう言うのも忘れません。

「母さん、足悪いんだから、勝手に外に出ないこと。いいね? 外は雪道で滑るしガタガタだから」

「わかってるよ」

 母はもう耳にタコができてるよ、と言わんばかりに笑って答えます。その笑顔に仮初の笑顔を返して、

「それじゃ、行ってきます」

 私は仕事に出掛けたのでした。

 昼休み、職場の休憩室から家に電話すると、母が出ました。ちょうどOさんが来訪しているところでした。母の声は少し楽しそうに聞こえました。Oさんはケアマネジャーで、介護のプロです。きっと話もうまいのでしょう。私はほっとしながら、今夜の夕食は何が食べたいか聞いて、電話を切るのでした。

 帰宅後、居間のテーブルには一枚のぺーパーが置いてありました。Oさんから家族あての簡単なメモのようでした。熱と血圧の数値と、お茶を用意して出迎えてくれたこと、小鳥の話で楽しそうにしていたこと、簡単な体操をしたことが書いてありました。体操はY事業所独自のもので、理学療法士が考案したもののようでした。

 さすがプロ、ちゃんと考えてる。私は感心すると同時に、これなら任せて大丈夫かも、と安心しました。

 

 

 母に変化が現れたのは、その翌日、火曜日からでした。

 以前に比べて、明らかに表情が明るい。そして食慾もある。時々的外れな発言はあるものの、おおむね会話は成立するし、おかしな行動もなりをひそめました。

 夕食時、ちょっと聞いてみました。

「母さん、あれ、どう? ほら、ここ自分の家じゃないっていう違和感」

「もう慣れたよ」

「慣れた? この家に?」

「ううん。変な感じはするの。でも、その感じにも慣れたから」

 つまり、違和感はまだ感じているわけか。でも、前ほど強くはないようだ。Oさんと楽しくおしゃべりしたことが何か効果があったのかな。

 翌日の水曜日も、平穏に過ぎました。

 昼休みに電話すると、またちょうどOさんが来ていたタイミング。楽しそうな母の声を嬉しく思いながら、夕食のリクエストを聞き、電話を終える。仕事が終わるとコンビニに寄ってから帰宅。夕食を食べて、母に薬を飲ませたら、セキセイインコのレトを放鳥。8時を過ぎると、母もレトも就寝。私は自分の部屋に引き上げ、ネットを見たりゲームをしたりして過ごし、0時頃に床につきました。

 そうして、3月10日の受診の日を迎えたのです。

 

 

 3月10日、木曜日。

 その日は平日ですが、私は1日休暇を取っていました。

 でも、だからといって寝坊はできません。母の病院の予約は朝の8時30分。いつもと同じ時間に起き、レトを起こしてテレビをつけ、それから朝食のパンを食べていると、母も起き出してきました。

「おはよう。母さん、今日病院だからね。8時半の予約だから、8時15分には家を出るよ」

「うん。帰りはタクシーを拾えばいいの?」

「え、何で?」

「だって、兄ちゃんいないでしょ?」

「いるよ。今日は休み取ったんだもん。ちゃんと付き添うから、心配しなくていいよ」

「そうなの」

 そして朝食と服薬を済ませると、身支度を開始。まあどうせマスクするんだし、と思って髭剃りは省略して顔を洗い、2階に上がって着替え。再び1階に降りると、母はもう上着まで来て、マスクもして椅子に座っていました。

「まだ時間あるよ?」

「うん、でも、もう着ちゃちゃったから」

 苦笑しつつ、母のカバンを点検。保険証とおくすり手帳が入っているのを確認すると、今度は自分のカバン。事前に書いておいた問診票も、市立病院からの紹介状もある。うん、これで準備はOK。

 8時を回ったところで、

「ちょっと早いけど、もう行こうか」

「うん」

「レト、俺と母ちゃん、ちょっと病院に行ってくるからね」

「ぴよ、ぴよ!!」

「ごめんね。今日は休みだけど、用事があるから出してあげられないんだ。夜にまた出してあげるから、今日はお利口にしていて」

「ぴよ、ぴよ!!」

 懸命に「ひとりにしないで!!」と鳴くレトの声を背に、私と母は家を出ました。

 目的のS病院までは車で5分もかかりませんでした。けっこう大きな病院なわりに駐車場が小さいので、車が停められるか少し心配でしたが、さすがに平日の朝一番で混雑にはなっていませんでした。

 出入口の近くの駐車スペースに車を停めて、病院内へ。新しい病院なので、内装はきれいでした。

 受付で名前を告げて保険証を提出し、待合スペースで待機。受付の横のプレートを見ると、診療は8時45分からと書いてある。30分以上待たされるのかなぁなんて思っていたら、一人の女性がやってきました。看護師長だといいます。

「問診票はお持ちいただけましたか?」

「あ、はい。これです」

「ありがとうございます。まずは私がお話を聞きますので、どうぞこちらへ」

 案内されたのは、診察室が並ぶ廊下の突き当りにある面談室でした。母と私が並んで座り、テーブルを挟んで向かいに看護師長。席につくと、改めて自己紹介した後、問診が始まりました。問診票を見ながら、一つ一つ、項目を確認していく。

 私は問診票に、Oさんへの説明や市役所でも使ったぺーパーを添付しておきました。問診票の中に、「いつから、どんな症状があるか具体的にお書きください」という項目があったので、いちいち書き入れるのが面倒だったので、「別紙のとおり」と書いて、そのペーパーをつけておいたのでした。

 これがまた、大いに役立ちました。看護師長も目を通して状況を理解してくれて、問診はすんなり終了。次に精神科の医師の診断になりますが、けっこう待たされました。まあ、初診だし、看護師長から医師への情報伝達の時間もかかるでしょう。覚悟はしていたので、イラつくこともなく、大人しくスマホのニュースを見ながら待ちました。時々母の様子も見てみましたが、まだ疲れた様子はありませんでした。

 やがて名前が呼ばれ、母と私は診察室に入りました。

 初老の穏やかそうな医師でした。母は医師の正面の椅子に、私は部屋の隅にあった付添人用の椅子に腰を下ろします。

 簡単なあいさつと状況確認の後、本格的な診察が始まります。

「これから私がいくつか質問をします。それに答えてくださいね」

「はい」

「今日は、何月何日の何曜日ですか?」

「…うーん、3月の…何日だったかな…」

 いきなり詰まる母。医師は回答を急かしはせず、私もここは助け舟を出しません。出してはいけないとわかったからです。

 これは母の認知能力を測るテストだ。たぶん質問項目も決まっているのでしょう。

「100から97を引くといくらになりますか?」

「えーと…100から…9じゅう…?」

  暗算が苦手な私でもわかる簡単な引き算です。でも、母は答えられません。

 その後もいくつか質問があったり、手を真っ直ぐに伸ばすよう求められたり、立って歩かされたりしました。母は質問の半分以上に答えられず、手を伸ばせば震えてうまくいかない、歩けば真っ直ぐに歩けない、という具合でした。

 医師は一通りの診察を終えると、次に神経内科へ行くよう告げました。看護師長が案内してくれます。精神科のすぐ近くなのですが、母は歩く速度が極端に遅いため、けっこう時間がかかりました。

 神経内科ではレントゲンを撮った後、医師の診察。これは私は同席を許されませんでした。

 診察が終わると、再び精神科の待合スペースへ。先ほどの精神科の医師から、診断結果か告げられるとのことでした。

「私、やっぱり認知症なのかな」

「たぶん、ね」

 私は、「そんなことないよ」などという気休めは言いませんでした。認知症であるならそれで、現実を本人にもきちんと受け止めてほしかったのです。

 しばらく待たされた後、名前が呼ばれ、再び診察室に入りました。

「まずね、あなたはパーキンソン病ではないです」

 医師は最初にそう言いました。

「パーキンソン病に似た症状が出ているけど、パーキンソン病ではない。あなたは『レビー小体型認知症』です」

 レビー小体型認知症。

 この診察までにネットで色々認知症のことを調べてきた私ですが、初耳の言葉でした。認知症にも種類があるのか。認知症、すなわち正式名称アルツハイマー型認知症、だと思っていたけれど。

「この型の認知症の症状には、運動障害があります。パーキンソン病みたいに、手が震えたり、転びやすくなったりする。それに錯視や妄想もある。中程度のレビー小体型認知症です」

 やっぱり、認知症だった。

 確信が事実に変わっただけで、私に驚きはありませんでした。母も覚悟はしていたようで、黙って医師の話を聞いています。

「認知症を治す方法は、残念ながらありません。アルツハイマーもレビー小体型もね。でも進行を遅らせることはできる。薬を処方するので、それを貼ってください」

 え?

 今「貼って」って言った?

 戸惑う私。飲み薬じゃないの?

「貼り薬です。貼ってください」

 貼り薬。そんなものが処方されるとは、意外というか、驚きでした。貼り薬と言えばイメージするのは湿布で、あれは患部に貼るものです。でも、認知症の場合、患部ってどこだ?

「えっと…どこに貼るんですか?」

「どこでもいいですよ」

「はい?」

「どこに貼ってもいいです」

「わ、かかりました」

「じゃあ、後の薬も2週間処方しておきますので」

「あ、薬のことなんですが…」

 私は、市立病院に通っていた頃から、母の薬が多いと思っていたこと、そのため自分で管理ができなくなっていることを話し、できればこの機に薬の種類や量などを見直してほしいと医師にお願いしました。すると医師は、PCの画面を見ながら、

「うーん、でも、いきなり減らしたらまずい薬も含まれてますし、ひとまず今までの薬を出して、様子を見ながら考えていきましょう」

 それよりも、と医師は言いました。

「薬は出しますが、認知症の治療のために、お母さんにはウチでやっているデイケアをお勧めしたい」

「デイケア、ですか…」

 母は知識として知っていたし、私も以前、リワーク・デイケアという場所に通っていたことがあるので、デイケアというのがどういうものなのか、何となくイメージはできました。

「この病院は、認知症デイケアの施設も併設していましてね。例えば週に1回でも通っていただければ、治療に有効だと思うんです」

 曰く、自宅まで送迎もしているので、家族が送り迎えする必要もないといいます。

 これは母の気持ち次第だな。そう思った私は、困ったようにこちらを見る母に、

「母さん次第だよ」

と言いました。

「もしよければ、これから見学もできますよ? その気があるなら案内させますけど、どうですか?」

 私個人としては、今の母にはハードルが高いのではないかと思いました。

 もちろん近い将来には、元気になって、家族以外の人ともたくさん触れ合うようになってほしい。そうすることで、脳に刺激を与えていくことが認知症の治療に良いと、確かネットの記事に書いてあったのを私は思い出していました。

 でも、私自身がうつ病で落ち込んでいた時期も含めて、母は家族以外の人たちと触れ合わずに過ごした時間が長すぎる。いずれ社会に出ていくにしても、段階を踏んだほうがいい。小規模多機能ホームのOさんに通所を勧められた時にも思ったことでした。病院の大きさから想像するに、ここのデイケアはけっこうな規模だ。そこへ飛び込む勇気が、果たして今の母にあるのかどうか。

 私は、母が断るものと思っていました。ところが、

「はい」

 母は頷いたのです。

 本当に大丈夫? そう思いましたが、母が了解した以上、私に否やはありません。話は進み、医師は机の電話を取って担当者を呼び出しました。

「すぐに迎えの者が来ますから、診察室の前で待っててください。それでは、こちらはもういいですよ」

「はい。ありがとうございました」

 立ち上がって、ぺこりと頭を下げる母。私も倣って、それから診察室を出ました。

「本当にいいの?」

 案内の人を待つ間、私は尋ねました。

「うん」

と、母は頷きます。ただ、どことなく元気がないように見えました。

 まあ、それはそうか、と私は思いました。「あなたは認知症です」と言われて笑っていられる人間もいないだろう。

 でも、本当にそれだけなのだろうか? 一抹の疑問が、私の頭から離れないのでした。

 15分ほど待ったでしょうか。

「すみません、お待たせしてしまって」

 担当者らしき女性が、恐縮しながら早足でやってきました。

「私、デイケアの〇〇と申します。さっそく、ご案内しますね。まずどんなものか実際に見てもらって、それから詳しい説明ということで」

 そうして私と母は、病院の隣の建物へと案内されていったのでした。

 

~つづく~

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レト「おかあちゃん、ほんとにいいんでち?」

 

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2022年3月27日 (日)

ケーンの介護日記 その5~嵐と大整理~

 3月5日、土曜日。

 その日の朝は私も母も、少し遅めに起きました。

 いつものパターン。私が1階の居間に降りて、セキセイインコのレトを起こし(起こすといってもカゴにかけた毛布を取り払うだけで、本人?はとっくに目覚めていましたが)、朝食のパンを食べていると、母が起きてくる。まだちょっと眠そうな顔で。

「おはよう。パン食べる?」

「うん。その前にトイレ」

 母がトイレに入っている間に、玄関からパンの入った袋を持ってきます。私はパンを食べ終え、朝の薬を飲んでからレトの世話。エサと水を取り換え、止まり木についたフンをティッシュで拭き取ります。その間に母は椅子に座り、袋からあんぱんを取り出して食べ始めました。

「…今日、来るの、昨日の人?」

「Oさんのこと? ううん、今日は来ないよ。月曜日から。今日は、俺たちが病院に行くんだよ。S内科」

 私と母は、月に1回、S内科クリニックに通っています。ふたりとも、病名は高脂血症。つまりコレステロールが高いのです。特に私の高脂血症はけっこう深刻で、健康の人の総コレステロール値が上限200なのに対し、私は薬を飲まなければ350超。時には400を超えたこともあり、その時は医者に「放っておいたら死ぬよ」と言われたのでした。

「先月行ったでしょ? もう1ヶ月過ぎたから、俺、もう薬ないんだ。母さんもないでしょ?」

「母さんのはあるよ」

「うそ。ほんとに?」

「うん」

 私はちょっと戸惑いました。S内科にはいつも私と母は一緒に受診していて、処方される薬は違うものの、量は30日分のはず。私が切れているのに、母の薬だけ残っているというのは妙でした。

「もしかして、時々の飲み忘れたりしてる?」

「…そんなこと、ないと思うけど…」

 と、母はちょっと自信なさげ。その時はわざわざ母の薬カゴを取り出して確かめたりはしませんでした。

「うーん、変だね。でもまあ、どうせ俺は行かなきゃだし、ついでだから一緒に行こう?」

「うん」

 出発を10時と決めて、私はいったん自室に引き上げます。何となくTVを見て過ごし、9時半から身支度を整え、居間に降りると、母も準備ができているようでした。

 9時45分に出発。車で国道を10分ほど走ると、S内科に着きます。受付で診察券と保険証を提出。母も保険証は出しましたが、診察券が見つからない様子。財布を開いて、色んなカードを出したり引っ込めたりしています。そういえば先月来た時も診察券が見つからなくて、受付の女性に「今日はいいですよ。次までに見つからなかったら、新しく作りましょう」と言われていたのでした。

 結局母の診察券は見つからなかったので、新しく作ることに。それと、新型コロナのワクチン接種の予約ができるかと質問。母は75歳の高齢者なので、もう3回目接種の接種券が市役所から届いていたのでした。

「予約は、今だと早くて4月13日になりますけれど」

「4月13日というと…ええと」

「水曜日です」

 S内科ではワクチン接種は週に1回、水曜日のみと決まっているとのことでした。仕方ない、その日、何とか休暇を取るか。私は4月13日の予約をお願いして、母の接種券を提出。受付の女性はそれを確認すると、予約日を記したメモをくれました。

 それから待合室で待機。まず母が呼ばれ、診察。それから少しして、私の番になりました。

 医者のS先生の診察は短い。前回の血液検査の結果をちゃちゃっと説明すると、血圧を測り、「うん、悪くないね。じゃ、いつもの薬を30日分出しとくから」で終了…しようとしたところで、私は留まり、ちょっと追加の質問をしてみました。

「先生、母のことなんですけど…診察の時、何か気になりませんでした?」

「お母さん? 一目見ただけでわかったよ。気分も春モードで行きましょう、って言っておいたから」

 ああ、うつ病のことか。S先生は母がうつ病で市立病院に通っていることを知っています。先生には今日の母が、元気がなく、うつ症状が出ているように見えたんでしょう。

 まあ、内科の先生だからな。認知症まで看過しろって思うほうがちょっと酷か。

 苦笑しながら、私は母が認知症かも知れず、近く専門の病院にかかる予定でいることを告げて診察室を後にしました。

 診察を終えると程なくして名前が呼ばれ、会計窓口へ。私は二人分の診察料を払うと、領収書と処方箋、それから母の新しい診察券を受け取りました。そして、薬局には私が行くことにして、母に車のキーを渡します。

「薬取りに行ってくるから、母さんはいつも通り、車で待ってて」

「うん」

 薬局で二人分の薬を受け取って戻ると、ちょっとトラブルが。車のドアが開かない。母は助手席に座っています。何をどうしたのかわかりませんが、中からドアをロックしてしまったみたいでした。

「ちょ、母さん、鍵開けて、鍵!!」

「…どうしたらいいの?」

 車のキーは母の手の中。これはもしかしてインキーというやつか、などとしようもないことを考えながら、あたふたと母に外から指示します。

「とにかくドア開けて、ドア!!」

 母はしばらく悪戦苦闘した末に、助手席のドアを開けました。私は回り込んで、母からキーを受け取り、運転席側のドアを開けてすべり込む。

「あーびっくりした。母さん、何したのさ?」

「わかんない」

「わかんないって…中に人がいるのにインキーなんて笑えないよ。まあ、開いたからいいや。帰ろう?」

「うん」

 車を発進させながら、私は考えました。今日の予定は、とりあえずもうない。帰ったら昼ご飯食べて、それからゆっくり過ごそうか。

 ところが、そうはなりませんでした。

 私は失念していたのです。妹からの、一通のメールを。

 

 

 帰宅して少し経ち、そろそろ昼食を取ろうかと思った頃。

 ピンポン、ピンポン、ピンポーン!

 玄関のチャイムがけたたましく鳴って、こちらの返事も待たず、ドアが開かれる音。慌てて玄関に出ていくと、小さな人影が飛び込んできたところでした。

「来たよー」

 そう笑顔で言ったのは、続いて入ってきた人物。それは妹でした。そして小さな人影の正体は。

「おじちゃん!!」

 妹の娘、つまり私の姪にあたる5歳児なのでした。

 しまった、忘れていた。

 その時になって、私は思い出しました。「明日の昼、遊びに行くね」という妹からのメールを。

 妹の旦那も一緒でした。

「マック買ってきたよー」

 妹が大きな紙袋を掲げて見せます。みんなで食べよう、ということのようでした。

 妹一家が居間に入ると、母は微かな笑顔を浮かべました。

「ばぁば、こんにちは!!」

「はい、こんにちは」

「レト~、こんにちは!!」

「ぴよ」

 場が一気に明るくなり、賑やかな昼食が始まりました。妹が手早くハンバーガーとポテト、ドリンクを並べて行きます。私にはスパビー、母にはチーズバーガーが手渡されました。姪っ子には5歳児らしくハッピーセット。50目前のおじさんにはよくわからないおもちゃに夢中になっていました。

 まあ、たまにはこんな食事もいいか。私はそう思いながら、ハンバーガーをかじりました。姪っ子は贔屓目に見ても可愛い。母にとっても当然、孫は可愛いだろう。孫の明るさが、母の心の癒しになってくれるといいのだけど。唯一の心配は、元気すぎる孫の相手をして疲れないか、ということだが…まあ、明日は日曜日だし、予定もないし少しくらい疲れても大丈夫だろう。

 ところが。

「おじちゃん、遊んで!!」

 姪っ子のターゲットは、私だったのでした。

 5歳児、それはまるで嵐。そのことを、私はそれから改めて思い知るのです。

「おじちゃん、かたき(ボールをぶつけあう遊び)しよ!!」

「おじちゃん、ドッジボール(やっぱりボールをぶつけあう遊び)しよ!!」

「おじちゃん、オセロしよ!!」

「次はかるたしよ!! ばぁばも!!」

 姪っ子は明るく元気いっぱいです。そんな姪っ子と遊ぶのは楽しいのですが、如何せんここ数日は色々なことがありすぎた。姪っ子の「〇〇しよ!!」に応えるたびに、どんどん体力が削られていく自分を自覚していました。それでも、

「おじちゃん、2階行こ!!」

 そう言って私の手を引っ張る姪っ子。

 5歳児恐るべし。

 観念した気分で姪っ子に手を引かれるまま、2階へ。ひとしきり「お店ごっこ」に付き合った後、満足した姪っ子に続いて1階に降りた私の顔には、明らかな疲労の色が現れていました。

「おかえりー」

 と、にこやかに私たちを迎える妹。妹の旦那はソファでくつろぎながらスマホを見ています。母も自室に引き上げたりせず、起きて居間の椅子に腰掛けていました。テーブルには3人分のカフェラテ。ああ、カフェラテ飲みながらのんびり雑談してたのね。一体どんなこと話してたんだろう? 興味が湧きましたが、それを知る機会は永遠に失われてしまいました。

「おじちゃん!!」

 嵐はますます勢力を増して、私を巻き込んで離さないのでした。

 

 

 6時頃、嵐を呼ぶ5歳児は両親に引っ張られて帰宅して行きました。

 私と母は夕食を取ります。夕食の後は放鳥。それを知っているセキセイインコのレトはもう臨戦状態。止まり木の上を左右に行ったり来たり、瞳は爛々として「出して出して」とアピールしていました。

「疲れたでしょう」

 と、母。私は苦笑い。

「まあ、ね。子供のパワーはすごいわ。50目前のおじちゃんにはついていけない」

 夕食はS内科の帰りにコンビニで買っておいた弁当。私は例によってパスタ、母はこの頃食欲がないので、小さな「一膳弁当」です。

 食べ終えると、私も母も食後の薬。私はカプセル二つだけですが、母はそうはいきません。大きな薬カゴを持ってきて、ごそごそ始める。

 多いな、と私は思いました。

 内科でもらっている薬は朝食後に飲むもので、つまりこれから母が飲もうとしているのはぜんぶ精神科で服用された薬です。

 母の精神科の薬については常々多すぎるのではないかと私は思っていて、以前、主治医あてに薬を見直せないか手紙を母に持たせたことがあります。でもその時主治医は、「転院するなら、その直前のタイミングで薬を変えるのは良くない」と言っていつもと同じ薬を処方していたのでした。

 母がごそごそやっている薬の袋をざっと数えてみると、7、8袋。しかも、一袋に一種類の薬が入っているわけではなく、朝だけ飲む薬とか、朝・夕に飲む薬、夕食後に飲む薬、毎食後に飲む薬…とややこしそうです。実際、今の母には難解らしく、母は同じ薬を取り出しては戻したり、また別の袋から薬を取り出したり、時には袋の中身をぜんぶテーブルにぶちまけたりと、苦労している様子でした。

 そんな母を見る私の耳には、レトの鳴き声が。早く出して、と催促しているようです。

「待ってね。母さんが薬飲み終わったら出してあげるから、お利口にして待っててね」

 そう言って視線を戻すと、母はまだ大量の薬を前に苦戦していました。

「母さん、ちょっとこれ見せてね」

 そう言って私が手に取ったのは、母の薬の説明書類。一般的には1枚ですが、母の場合は4ページに及びます。見ると「不安や緊張を和らげる薬です」とか「眠りに入りやすくし、よく眠れるようにする薬です」とか書いてありますが、同じ記述が何度も出てくるうえ、それぞれ服用するのが朝・夕食後とか毎食後とか就寝前とかみんな違っている。今の母がこれを全部把握しているとは考えにくい。これまで、飲み忘れや飲み過ぎなどがあったのではないか。

 精神系の薬は正しい用法で服用しないと、かえって悪影響がある。私は決意し、母に声を掛けました。

「母さん、ちょっと薬、整理しよう」

「整理?」

「母さん、薬、これぐちゃぐちゃでしょ。ほら、この薬だって、本当はこの袋じゃないもの」

「だって、薬多いから、母さん、わかんなくなっちゃって…」

「うん。だからちゃんと整理して、正しく服用できるようにしよう? 手伝うから」

 手伝う、と言いましたが、もう全面的に私がやるつもりでした。いったん、全部の薬をテーブルにぶちまける。それから、説明書類の薬の写真を見ながら、これはこの錠剤、これはこの小袋、と寄り分けて、正しい袋に入れ直していく。

 もちろんてきぱきと、とは行きません。基本的に今まで薬の扱いは本人に任せていて、母がどんな薬を飲んでいるか知ったのも、ごく最近のことなのですから。少し、いやかなり苦労しながら、それでも何とか薬を正しい袋に入れることができました。それを、薬カゴに、朝から飲む順番に並べて行く。こんな時、袋に「朝・夕食後」などと書かれていると並べる順番に迷うのですが、そういうものは結局最初に飲むタイミングに合わせるようにして、どうにか並べ終えました。

「よし、できた。どう、母さん? 少しはわかりやすくなったと思うけど」

 母は薬カゴを見て、それからゆっくり首を左右に振りました。

「…やっぱり、よくわかんない」

「…そっか」

 それじゃあ、仕方ない。

 これからは私が母の薬を管理することにしよう。

「いいよ。何とか自分でできるから」

「だって、よくわかんないんでしょ?」

「…うん」

「飲み過ぎとか飲み忘れとかあったら大変だから、これからは俺が母さんの薬、出すようにするから」

 レトも待ってるしね、と付け加える。

 そう。切実な理由がもう一つ。母が薬に手間取る分、レトの放鳥が遅くなってしまうのです。

「で、今夜飲むのはこれとこれとこれ。寝る前の薬は後で用意するから、まずそれ飲んで」

 母が薬を飲み始めると、私は母の薬カゴをしまい、レトのもとへ。

「遅くなってごめんね。今、開けるからね」

 入り口を開けると、待ってましたとばかりにレトが飛び出し、私の肩に。

 そして、

「遅いでち!!」

 とばかりに、私の耳たぶをひと噛みするのでした。

 

~つづく~

 

Img_0668

レト「ぷんぷんでち!!」

 

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2022年3月20日 (日)

ケーンの介護日記 その4~スタートライン~

 あくる日、3月4日、金曜日。

 私は少し寝不足気味でした。昨夜のことがあって、なかなか眠れなかったのです。ようやく眠りに落ちたのは、たぶん午前2時近く。そして、目覚めたのは朝の5時頃。最近、年齢のせいか、何時に寝ても、必ず5時くらいに目が覚めるのです。

 でも、今日は休暇を取ってある。私は2時間ほど布団の中で惰眠をむさぼった後、7時を回った頃に起き出し、1階の居間に下りました。

 セキセイインコのレトを起こしてやり(正確にはカゴにかけておいた毛布を取り払ってやり)、エサを替え、それから自分も朝食のパンを口に運んでいると、母が起き出してきました。

「おはよう、母さん」

「うん」

 7時を過ぎてものんびりしている私を見ても、「あれ、仕事は?」とは言いません。かといって私が休暇を取っていることを覚えているわけではなく、つい最近まで私は休職してしばらく仕事に行っていなかったので、母には見慣れた光景なのでした。

「パン食べる?」

「トイレに行ってから」

 母がトイレに入っている間に、母の分のパンとミカン、麦茶を用意する。パンはセブンイレブンのこしあんぱん。昔から母はあんぱんが好きなので、いつ食べたがってもいいように、ストックは切らさないようにしていました。

 あんぱんを食べる母に、夕べの深夜の出来事を覚えているか尋ねてみます。案の定、母の記憶にはありませんでした。それ以上は追求せずに、私は母に今日の予定を伝えました。

 午前中に、小規模多機能事業所(難しいので母には福祉の施設とだけ伝えました)のスタッフの人が来ること。それが終わったら、私は午後、市役所に行って母の要介護認定の申請をしてくること。

 母の顔が曇りました。

「母さんは、どうすればいいの」

 小規模多機能事業所のスタッフが何をしに来るのか、何か難しい話をしなければならないのか、少し不安そうです。

「母さんの様子を見に来るんだよ。専門の人がね。でも大丈夫、難しい説明は俺がするから、母さんは聞かれたことに答えればいいよ」

「そうなの」

「そう。母さんあんまり説明うまくないでしょ? それは俺が引き受けるから、大丈夫。気楽にしてて」

「うん」

 それから母の視線は、TVの画面へ。我が家の朝は、決まってフジテレビの「めざましテレビ」です。画面ではお天気キャスターのお姉さんが、にこやかに全国の天気を説明しているところでした。

 札幌は晴れ。そっと窓を見ると、札幌に隣接するこの街の空も、きれいに晴れているようでした。

 

 

 朝食後、母はもう少し寝ると言って自分の部屋へ。私もカゴの中のレトを少しかまってから、いったん自室に戻って着替えをします。さすがに部屋着のままじゃ失礼だろうし、午後には市役所に出掛けるんだからと、ジーンズに厚手のシャツといった格好になりました。

 9時過ぎ。玄関のチャイムが鳴って、妹が顔を出します。妹も、午前中は休暇を取っていたのでした。

 母はまだ布団の中。10時に小規模多機能事業所のスタッフが来るので、そろそろ起こして身なりを整えさせなければなりませんが、その前に私は妹に昨夜の出来事をざっと説明しました。

「そっか。危なかったね。無事でよかった」

 妹は心配と安堵が入り混じった表情でそう言いました。

 それから、母を起こしに行きます。「M子(妹の名前)も来たの」と言いながら、ゆっくり起きようとする母。でも、手足に力が入らないのか、なかなか起きれません。「うん。来たよ」と笑顔で答えながら、妹は母に手を貸して起こしてやりました。

 母の着替えが終わり、そろそろ10時になろうかという頃、居間の固定電話が鳴りました。私が出ると、女性の声が。

『小規模多機能ホームY(施設の名前)です。もうすぐお宅に着きます』

「わかりました。お待ちしてます」

 そうして現れた女性は、Oと名乗りました。名刺を差し出すので受け取ると、肩書は「ケアマネジャー」とありました。

 ケアマネジャーさんが来たのか。私はちょっと驚きました。電話の声が優しげでほんわかしていたので、何となくヘルパーさんかな? と思っていたのです。見ると、マスクで顔立ちはよくわかりませんが、優しげな目許は笑顔です。この人がケアマネジャー。

 ケアマネジャー(介護支援専門員)は立派な国家資格です。介護を必要とする人が最適な介護サービスを受けられるように、ケアプラン(計画)の作成や介護事業所との調整を行う、介護保険のスペシャリスト。私は若い頃、福祉の職場にいましたが、介護保険制度ができたばかりのその頃、先輩のベテラン職員(主に係長職)が何人か、ケアマネジャーの資格試験に挑んでいたのを覚えています。

 なのでケアマネジャーと言えばちょっと年齢が上の、お堅い役人ふうの男性──そんなイメージがあったのですが、目の前の女性はたぶん私より年下でしょう。時代が変わったのか、それとも単に私のイメージが古すぎるのか。

 ともかく、専門職の人が来てくれたのはありがたい。居間に招き入れると、Oさんはにこやかな声で母に挨拶しました。よろしくお願いします、と名刺を差し出す。母はそれを受け取って、「よろしくお願いします」と返事。警戒している様子はありませんでした。

 各々席についたところで、

「具合はどうですか、お母さん」

「はい…それがなかなか…」

 笑みを浮かべながら言いよどむ母の隣から、私が1枚のペーパーをOさんに差し出しました。

「ここに、最近の母の様子をまとめておきました。よければこっちにまず目を通してくれますか」

 それは先日、私が母に持たせた、市立病院の主治医あての手紙の添付資料でした。仕事の合間、職場のパソコンを使って作成しておいたものです。母が市立病院を受診した後の情報も追加した、言わばバージョン2です。午後から行く予定の市役所でも使おうと思って、2部用意しておいたのでした。このあたりは長年の事務職員としての経験が生きています。もちろん、昨日の昼、母が突然家を出て行こうとしたことも内容に追加してありました。

 うん、うんと小さく頷きながらペーパーを読み進めるOさん。それから私は、昨日の深夜の出来事を話します。

「母さん、ほんとにそんなことしたの?」

 母はやっぱり思い出せない様子。私は「そうなんだよ」と頷きました。

「状況はわかりました。今日、息子さんが市役所に行くんですね?」

「はい。午後から行って、要介護認定の申請をしてきます」

「それなら大丈夫です。介護サービスは認定前でも申請日にさかのぼって利用できますから、今日からでもサービス開始できます」

 なるほど、遡及適用か。役所用語で理解する私。申請から認定まで1ヶ月かかるとしても、ちゃんと緊急性には対応できるように制度設計されているのだ。さすがに国が鳴り物入りで導入した制度。抜け穴はないというわけか。

 そして、Oさんが取り出したのは小規模多機能ホームYのパンフレット。

 小規模多機能事業所はその名のとおりスタッフの数も利用者の数も小規模で運営されているが、小規模だからこそ、みんなが「顔なじみ」になり、安心で親密な関係性を築けるのが利点だといいます。なるほど考えられているな、と私は思いました。今まで家に閉じこもり気味だった母が、いきなり大勢の人の中に飛び込むのはハードルが高い。おそらく交代で来てくれることになるであろうヘルパーさんにしても、毎日毎日知らない顔がやってくるのでは利用者は安心できない。そこをフォローできるのが、小規模事業所というわけです。

「うちには、通所、訪問、宿泊という三つのサービスがあります」

 専門用語で言い換えれば、デイサービス、訪問介護、ショートステイといったところか。仕事柄、専門用語に慣れていた私はすぐに理解しましたが、もちろん母はそうではありません。ケアマネジャーのOさんは丁寧に、通所、訪問、宿泊の三つのサービスの内容を説明していきました。

 パンフレットにももちろんそのことが書いてありましたが、「通所」の文字だけ太字で大きい。たぶんこれがメイン事業なのでしょう。

「通所といっても、小規模ですから定員は15名です。見知った顔の仲間で、楽しくおしゃべりしたり、お食事をしたり、レクリエーションをしたりするんですよ」

「あ、えーと」

 そう口を挟んだのは私です。

 いくら小規模でも、今の母が集団の中に入っていくのは無理がある、と私は考えていました。もちろん自宅まで送迎してくれるというし、利用時間中はスタッフが見てくれているというから不慮の事故もないだろう。

 それでも。

「家族としては、ゆくゆくは施設に通って、家族以外の人と触れあって元気になってほしいと思ってます。いつも見る顔が私とか妹とか、家族だけだと、どうしてもマンネリというか、刺激にならないと思うんですよね」

 それは私の経験に基づく発言でした。私も「うつ病」がひどくて家にこもっていた頃は、顔を合わせるのは同居の母か、時々顔を見せる妹とその夫、娘くらいでした。さらにひどい時には、妹一家の顔を見るのも苦痛でした。働きもせずひきこもっている私に比して、妹もその夫も社会人としてきちんと働いている。その娘──私にとっては姪──も、元気に保育園に通っている。その落差がどうしようもなく辛くて、情けなくて、情けない自分を見られるのが嫌でした。

 でも、良い薬に出会って調子が上向いて、リハビリ勤務に入って職場に通うようになると、他人と接することがとても楽しく、刺激になりました。ちょっと言葉を交わすだけでもいい。内容も必ずしも楽しくなくても、それこそミスを指摘される内容でもいい。回復して戻った「社会」は何もかもが新鮮で、心地好い刺激に満ちていました。その刺激が、さらに自分を元気にしてくれる実感がありました。

 だからいずれ母にも、「社会」に戻って欲しい。もちろん働けという意味ではありません。狭苦しい家から歩み出て、心地好い刺激に満ちた世界に触れて欲しいのです。きっとそうすることで、たとえ認知症が治らないとしても、少なくとも「うつ」からは回復できる。世界はこんなにも優しいんだ、とうことに気づくことができれば、きっと元気になれる、と、私はそう思っていました。

 でも、今はダメだ。再び世界に踏み出すには入念な準備と、少しの勇気が要る。そのどちらもが今は不十分だ。タイミングを誤ると、世界は簡単に顔を変える。外にはただただ辛いことしかなく、家の中の、自分の部屋の中だけが唯一安心できる場所──そんなふうにしか考えられないようになってしまう。まして今の母には、その「唯一安心できる場所」すらないのだ。今の母にとって、ここは自分の本当の家ではないのだから。

 今の母に必要なのは「安心」だ。接するのは普段から見慣れている家族と、見知った顔に限定したほうがいい。そうして穏やかに心の回復を待ちつつ、徐々に「安心できる世界」を広げてゆくのだ。

 それが、若い頃に福祉に携わり、自分も「うつ」を経験した私が描いたロードマップでした。

「だから、まずお願いしたいのは「訪問」なんです。1日に1回でいい。私や妹の目が行き届かない時間帯に、母の様子を見に来てくれる人が欲しい。日中、母は孤独なんです。レトはいますけど、残念ながらレトは人の言葉が話せないので…」

 これは家族のエゴかも知れない、という思いがありました。見守り、と言えば聞こえはいいが、要するに母を監視したいだけではないのか。他人に母を監視させておいて、自分が安心を得たいだけではないのか。

 でも、この際エゴでも何でもいい。母を失いたくない。その思いだけは本当です。いや、それすら「自分に代わって家事をしてくれる存在を失いたくない」というエゴかも知れない。でも、それでもよかった。母がいてくれるのなら、自分の動機が何であろうと構いませんでした。

 こちらの意向を、ケアマネジャーOさんは理解してくれました。

「それでは、戻ってケアプランを作成してみます。それを見ていただいて、正式にサービスの内容を決めましょう。いつがよろしいですか?」

 私はざっとカレンダーを見ます。今日から土曜日、日曜日は私がいるから大丈夫だろう。月曜日は…もともと休む予定だったが急遽、今日に変更したので休めない。もともと今の職場は、週明けの月曜日は忙しいのです。次に休暇を押さえてあるのは、3月10日、母を病院に連れて行く日だ。初診で、しかも認知症の検査がある10日の診察は、ぜひとも家族の同伴が必要だと病院から言われていた。

「わかりました。それでは、10日の午後にまたお邪魔して、ケアプランの提案をさせていただきますね」

 3月10日は木曜日。介護保険のサービスは要介護度に応じて、決められた限度額の範囲内で設定されます。まだ母は要介護の認定を受けてはいませんので、Oさんは今日聞いた話を基にして要介護度を想定し、限度額やサービスの料金を考慮してケアプランを作成することになります。一両日中にはできないだろうし、計画の作成には精確な病状の把握も必要になるでしょう。10日午前の医師の診断の結果を病院から入手し、プランを完成させる──そういうことになるのだろうと私は見当をつけました。

 では、月曜日から水曜日までの3日間はどうするか? 考えていると、Oさんから意外な申し出がありました。

「それまでの3日間は、私が来ますので」

「え、いいんですか?」

「はい、大丈夫です。お母さん、月曜日から私、お昼頃に来ますから、よろしくお願いしますね」

 さすがにプロ。抜け目がありません。こちらの心配はとっくにお見通しなのでした。

 一通り予定を確認すると、ケアマネジャーOさんは帰って行きました。

「あの人が、これから来るの?」

「そうだよ。木曜日までは、Oさんが毎日来てくれるって。優しそうな人で良かったね」

「でも、私、特に手伝ってほしいこともないし…」

「Oさんはヘルパーとは違うんだよ。まあ正式にサービス開始になったらどういう人が来るのかはちゃんと確認しなきゃと思うけど、ヘルパーさんじゃないから、別に無理に家事をやってもらわなくてもいいの」

「そうなの…?」

「うん。様子見に来るだけだから、リラックスして、楽しくおしゃべりでもしてればいいよ」

 納得したのかしないのかわからない顔を母はしましたが、それ以上は言わず、「疲れたから寝る」と言って布団に入っていきました。

 それから私と妹は小規模多機能ホームYのパンフレットなどを見直したりして過ごし、昼食を取りました。母は「いらない」と言って布団から出てきませんでした。初対面の人とけっこうな時間話したので、だいぶ疲れたのでしょう。

 12時半頃、妹は「じゃあね」と言って仕事へ行きました。

 私は少し自分の部屋で休憩してから、14時過ぎに布団の中の母に声をかけました。

「それじゃあ、市役所行ってくるから。ついでに晩ごはん買ってくるつもりなんだけど、何か食べたいものある?」

「んんー…特に…」

「思いつかない?」

「うん…」

「じゃあご飯ものか麺類か、それだけ決めて?」

 ご飯かなぁ、と母が言ったので、じゃあ適当にお弁当買って来るね、と言い置いて、私は家を出ました。

 もちろん、勝手に一人で外に出たらダメだよ、と念押しすることは忘れませんでした。

 

 

 車で5分も走れば、市役所に着きます。

 平日の午後。市役所1階正面は戸籍や住民票などの窓口ですが、けっこう人がいました。3月から4月は、人の移動が多い時期。学校への入学や人事異動などに伴い、住所を移す人が多いのでしょう。

 目指す介護保険課は、同じ1階の、廊下を渡った奥にありました。手近な職員に声をかけて用件を告げると、カウンターの席に案内されました。

「今、担当の者が参りますので」

「はい」

 程なくして、若い女性職員が一人と、少し年上と見られる男性職員一人がやってきました。話し出したのは女性職員のほう。男性職員は女性職員が書類を見ながら時々質問すると、小声でアドバイスする。

 ふむ、女性職員は新人さんなんだな、と私は察しました。こちらの用件は重大なので、正直なところベテラン職員に対応して欲しかった気持ちはありますが、仕事をする中で、誰にでも新人時代はあるものです。そして、経験を積まないと新人は育たない。そのくらいはわかっているので、ここはわがままを抑えて新人さんのがんばりに期待します。多少時間がかかったとしても、そこはまあ大目に見ましょう。

 事前に用意しておいたペーパーが、ここでも大いに役に立ちました。こちらの状況説明は最低限で済み、すぐに要介護認定の申請手続きに入ります。申請書に必要事項を記入し、必要書類(保険証など)を添えて提出。女性職員がそれを持っていったん下がると、残った男性職員と軽く雑談。

「大変でしょう、福祉の職場。実は私も昔、福祉に携わっていたことあるんですよ。役所づとめなんで」

「みたいですね(←申請書の職業欄に「公務員」と書いたのをしっかり見ていた)。今はどちらの職場に?」

「戸籍住民課です」

「それじゃあ、そちらこそ今時期大変でしょう。年度末が近いから」

「いやあ、戸籍住民課でも戸籍のほうですからね。住民票のほうは人が移動する時期なので忙しいですけど、戸籍はそこまででは」

 などと役所トークに花を咲かせていると、女性職員が戻ってきて、申請を受け付けたことを告げ、保険証を返してくれました。それから今後の手続きの説明。新人さんだからとつい上から目線で見ていましたが、なかなか説明もてきぱきとしてわかりやすい。申請後、専門の職員が訪問調査に来るのですが、調整の結果、3月22日の午後ということになりました。いちばん早い予約は22日の午前中ですが、22日は三連休明けの初日。午前中が特に忙しく、休暇が取れない可能性があったので、午後にしたのです。なんとか上司を説得して、せめて午後休は取らせてもらうつもりでした。

 それから介護サービスの利用についての一般的な説明を受けて、申請手続きは終了となりました。

 本日の任務を無事に終えた私は、これで事態が好転していくことを祈りながら、帰宅の途についたのです。

 

 

 その日の夜、無事にレトと母が寝るのを見届けた私は、2階の自分の部屋へ。

 携帯を見ると、1件のメールが。妹からでした。

「しっかり者の兄がいて幸せだわ。頼りにしてます!!」

 そして、

「きっと大丈夫、うまくいくよ」

と。

「そうだね」

と、私は心の中で妹に向けて呟きました。

 打てる手は全部打った。可能な限り早く。だから大丈夫、きっとうまくいく。

「それにしても、しっかり者の兄、か…」

 思わず、苦笑いがこぼれます。

 妹よ、俺はしっかり者なんかじゃない。基本的に面倒くさがりで怠け者だし、家事なんてぜんぜんできないし、人見知りで引っ込み思案で、気が小さくて。社会に出たら「うつ病」で出世街道から一気に転げ落ち、休職と復職とをさんざん繰り返してきた問題児だ。

 昔、先輩職員から冗談交じりに言われたことがある。俗にいう「じんざい」には、3種類あるんだ、と。

 普通の「人材」。

 いてくれることが有難い「人財」。

 そして、いることが迷惑な「人罪」。

「お前は将来、どれになるだろうな?」

 先輩職員は俺が「人財」になることを期待して、いや、「人財」になれと励ます意味で言ってくれたのだと思う。

 でも、今までの俺は間違いなく「人罪」だ。役所づとめならばなおのこと。税金から給料をもらっておきながら、休職してばかりで、ぜんぜん社会に貢献してこなかった。むしろ市民の血税を食いつぶして生きてきたんだ。

 でも、それでも。

 それでも、これからはせめて「人材」になりたい。給料分の仕事はする。1対1。等価交換。親にはこれまで育てられた分、同じだけ恩を返す。できればそこに+1できればなおいい。職場にも親にも、-1どころではない負債があるのだから。

 父さんには恩を返せないまま逝かれてしまった。だからせめて、母さんには。

 これは俺の借金返済なんだ。借りた金を踏み倒す人間には、なりたくないだけなんだよ。

 膨れ上がった借金を、完済できるかどうか、まだわからない。完済する前に終わってしまうかも知れない。職場には退職という、親には死という明確なタイムリミットが存在するのだから。

 だから、俺は走る。走って、タイムリミットまでにできるだけの借金を返す。今がその「スタートライン」なんだ。

 そんなことを思いながら、眠りにつくのでした。

 

~つづく~

2022031301

レト「にいちゃん、よ~い、どん!! でち!!」

 

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2022年3月10日 (木)

ケーンの介護日記 その3~急ぐ息子、母の涙~

 3月3日、午後。

 昼、母の様子を見に行った妹からの電話で、玄関での事件を聞いた後でした。

 もう猶予はない。そう思いました。予定では週明けの3月7日に市役所に行くつもりで、その日の休暇も押さえていましたが、状況が変わった。

 母が、家を出て行こうとした。それは衝撃でした。

 母が認知症かも知れない。そのことは常々思っていました。

 でも、

「ここは自分の家じゃない」

 そんな妄想めいたことを口にしたことは今までなかったのです。物忘れが多くなったとか、ちょっとした記憶違いがあったりだとか、そんな程度でした。

 加えて、今の母は足が悪く、まして冬、雪道で道が悪い。とても外出できる状態ではなく、また本人も外出しようとはしませんでした。

 だから、ちょっと認知症が進んだとしても、いわゆる「徘徊」はない。今までもなかったし、これからも、当面の間はないだろう。そう考えていました。

 しかし、今回、母は家を出て行こうとした。たまたま妹がその場面に遭遇したからよかったものの、そうでなければ母は足が悪かろうと外出し、あるはずのない「本当の家」を求めて、雪道をさまようことになっていたかも知れないのです。セキセイインコのレトを連れて。

 徘徊の可能性が頭をよぎると、私はもういてもたってもいられませんでした。

 目を離した隙に家族がいなくなる不安と恐怖。母と、レトと。

 予定では3月7日に市役所で要介護認定の申請、しかし申請から認定までには1ヶ月近くかかると市のホームページには書いてあった。介護サービスが始まるのは、認定で要介護の度合いが決まった後になる。

 ならば病院は? 病院は、3月10日の予約になっている。そこで初めて、認知症かどうかの検査を受けるのだ。

 遅い。

 今日は木曜日。土、日は私が家にいるとしても、金曜日は仕事に来なければならず、日中はどうしても目を離すことになる。その1日の間に、また母が「ここは私の家じゃない」という妄想に捉われたら? 妹だってそうそう仕事を抜けられないだろう。よしんば抜けて様子を見に来ることができたとしても、母が家を出て行こうとするその瞬間をつかまえられるとは限らない。私も妹も知らない間に、母はいなくなってしまうかも知れないのだ。

 私は仕事を抜け、休憩室で市役所に電話をかけました。

 今、すぐ介護サービスには頼れない。ならば何かないか。介護保険とは別の、地域の高齢者を見守ることのできる制度やサービスが。例えば、保健師が家庭訪問をしてくれるとか。民生委員という存在もある。最後の手には警察だってある。しかしまずは市役所だ。そこで相談をして、最善の手を模索する。警察に行けと言われたら行く。そのつもりで、私は市役所に介護保険課の職員と話しました。

 昼間、母が妄想に捉われて家を出て行こうとしたこと、普段から認知症を疑わせる言動があったこと、足が悪く歩行に難があり、どこで転んで動けなくなるかわからないこと、近々要介護認定の申請に行くこと、病院に行く予定はあるがその日まで待っていられる状況ではないこと等々、事情を説明して尋ねました。今すぐに使えるサービスはないのか、と。

 職員の方はひととおり私の話を聞くと、「地域包括センター」の電話番号を教えてくれました。そこは、市の委託を受けて、地域の高齢者の生活を支えるための総合相談窓口となっている施設とのことでした。その気になれば、そこに要介護認定の申請を代行してもらうこともできるそうです。

 私は礼を言って電話を切ると、すぐさま地域包括センターに電話をかけました。応対に出た担当者に再び事情を説明。すると担当者は事態の緊急性を理解してくれたのか、

「少しだけお時間を下さい。すぐに検討しますので」

「お願いします!!」

 いったん電話を切って席に戻り、仕事を再開する。折り返しの電話があったのは、10分ほど経った頃でした。

「小規模多機能事業所しかないと思います」

「しょうきぽ…何ですって?」

 説明されましたが、正直、何の事業所なのか、その時の私にはよく理解できませんでした。理解できたのは、そこならば何らかの手を打ってくれるであろうということ。しかしそこは何だ? 施設? 施設の入所を勧められているのか?

「すぐに動ける事業所は〇〇です。そちらの〇〇という者と話してみて下さい。こちらからも話を通しておきますので」

「わ、わかりました」

 言われた電話番号をメモして、仕事に一区切りついたタイミングて休憩室へ。電話をかけると、教えられた名前の人物がすぐに電話に出ました。こちらの名前を告げると、すでに地域包括センターから連絡が言っていたらしく、ああ、とすぐに状況を理解してくれました。

「とにかく本人の病状と生活の状態を把握したいので、お宅に伺います。いつがよろしいですか?」

 今日は、妹が午後から仕事を休んで母についてくれている。私が帰宅するまで大丈夫だろう。

 一つの考えが私の頭をよぎりました。

「明日の午前中にお願いできますか?」

 私は予定を早めることにしました。

 明日、3月4日の金曜日。7日に押さえていた休暇をその日に変更する。午前中に小規模多機能事業所の担当者に訪問してもらい、母の状況を知ってもらって何らかの手を打ってもらう。そして同じ日の午後、市役所に行って要介護認定の申請をする。

「わかりました。それでは明日の10時頃に、〇〇という者が伺います」

「お願いします」

 会話を終えると、私は職場に戻り、上司に事情を説明し、許可を得て休暇を3月4日に変更しました。そしてその日は2時間、時間休を取り、3時15分、帰宅の途についたのです。

 

 

 幸い、私が帰宅するまで、母は特に問題を起こしてはいませんでした。リビングでTVを見ていた妹に礼を言います。

「なんもだよ」

 妹は笑顔で応じます。時刻は4時半を過ぎていましたが、妹は「まだ(娘を)迎えに行くには早いから」と、それから少しリビングにいました。その間にお互いに情報交換。明日、小規模事業所の担当者が訪問に来ると知ると、妹も同席すると言いました。

「午前中休んで話を聞いて、午後から仕事に行くわ」

「そんなに休んで大丈夫なのか?」

「なんもだよ。休み、いっぱい余ってるから」

 5時半頃、じゃあ明日ね、と言って妹は帰って行きました。前後して寝ていた母が起き出して来たので、

「ご飯にするかい?」

「うん」

 夕食はコンビニ弁当。母には最近、食欲があまりないので、少し小さめのお弁当。私にはポロネーゼ。それと、二人で食べるためのサラダ。二人分のコップに麦茶を入れて、食べ始めます。

「食べながらでいいから聞いて、母さん。大事な話」

「なに?」

「ほら、母さん、今日の昼、家を出て行こうとしたでしょ?」

「うん…」

「それでね、俺も〇〇(妹の名前)も、心配なんだ。だからね…」

 私は、市役所に電話をかけたこと、小規模多機能事業所という施設を紹介され、そこに相談をしたこと、明日、そこの担当者が訪問に来ることを話しました。そのうえで、一つ、念を押しておきます。

「俺は、母さんを施設に入れようとか、そういうことを考えてるんじゃないよ。母さんがこの家で生活していくうえで、不便が出ないように、少しだけ手助けをしてもらおうと思ってるの」

 母の箸は止まっていました。私は続けて、決定的な一言を投げます。これは、避けて通れない道でした。

「母さんは、認知症だと、俺は思う」

 母はしばしの沈黙の後、うつむきました。

「年を取ると、人間、色々あるんだ。だから、病院に行って診てもらうんだし、市役所に相談も行くし」

「うん…」

「だからって恥ずかしいことじゃないよ。困ったら誰だって助けてもらうんだ。母さんの番が来たってだけの話。そのための介護保険制度なんだよ? そのために税金払ってるんだし」

「おかしいの…」

「うん?」

 そう言って私を見る母の目には、いつしか涙が浮かんでいました。

「誰もいない、がらんとした家に、連れていかれたの。それで、今日からここで暮らすんだよ、って」

「連れていかれたって、誰に?」

「…わかんない」

「それって、どこの家? 前に住んでたところ?」

「違う。でも、兄ちゃんも住んでたことあるよ。北海商店のとなり」

「北海商店のとなり? 俺、そんなとこに住んだことないよ。知らないよ俺、その家」

「わかってる。だからおかしいの」

 それは過去の記憶か、妄想か。母の言っている家のことを、私は理解できませんでした。でも、母は一生懸命に何かを伝えようとしている。

 何かがおかしい。何かが違う。

 自分が普通の状態にないことを、おぼろげに理解しているのか。母はここで衝撃的な告白をしました。

「私、おかしくなって、自分が嫌になったの。だから、薬をいっぱい飲んで、死のうとしたの」

「…!!」

 私は驚愕しながら記憶を探りました。確か数日前の朝、私が仕事に行こうとリビングに降りた時、いつもなら起きているはずの母が起きられなかったことがありました。私は布団の中の母に声をかけて、

「母さん、仕事に行ってくるね」

「…うん。いってらっしゃい」

 あの日か。あの日の前夜、母は睡眠薬を大量に飲み、それで起きられなくなっていたのか。

 TVドラマで睡眠薬を大量に服用して自殺するシーンがよくありますが、それはドラマの中の話。現実はそんなに簡単ではありません。昨今、睡眠薬の安全性は急速に高まっており、ちょっとやそっとの量では人は死にません。薬の作用が強く出て、昏々と眠り続けるか、意識を失うだけ。もちろん致死量というものはありますが、医師が1回に処方する量を全部いっぺんに飲んだとしても、その量には至りません。

 これはたぶん間違いありません。何せ、睡眠薬、精神安定剤、全部ひっくるめて約70錠をビールと一緒に飲んで自殺を図り、失敗した私が言うのですから。もっともその時は通勤途中に突然意識を失い、倒れて救急搬送されたので、無事だったとは言えませんが、そう簡単に死ねないことは確かです。せいぜい、頭を打って数針縫った程度。

 母も、そのことは知っているはず。それでも、やらずにはいられない何かがあったのでしょう。

 自分が嫌になった。たぶん、自覚があるのでしょう。もう、自分が普通ではないことの。

 だからこその、涙。

 私は言いました。

「人間、辛いこともあれば、その分良いこともあるよ。俺は、母さんに元気で、生きててほしい。〇〇(妹の名前)も、〇〇(妹の娘の名前)だってそう思ってるよ」

 妹の娘、私にとっては姪に当たりますが、母にとっては初孫です。現在、保育園に通う5歳の元気な女の子。

「俺はさ、〇〇(妹の娘の名前)が大きくなってくのを見ていたい。母さんはそう思わない?」

「思うよ。だって孫だもの」

「じゃあ生きようよ。辛いことも良いことも、きっと代わる代わる来るんだから」

 この時、私の頭に浮かんでいたのは、アニメ『鬼滅の刃 遊郭編』に登場した鬼、妓夫太郎の台詞でした。

「辛いことも良いことも、代わる代わる来いよ!!」

 アニメのキャラクターの台詞がこれほど刺さったのは、いつぶりだったろう。だから、とっさに口をついて出た。

 母は頷きました。それからしばらく私と母は言葉を交わしましたが、行き着くのは謎の「北海商店のとなりの家」の話。なぜそんな記憶が母にあるのか、なぜその記憶がそんなにひっかかるのか、最後までわかりませんでしたが、話すだけ話して、泣くだけ泣いてすっきりしたのか、やがて母は「寝る」と言って自分の部屋に戻っていきました。

 私はセキセイインコのレトを放鳥し、少し遊んでいましたが、レトが満足してカゴに帰ると、照明を消してリビングを出、2階の自分の部屋に引き上げました。母の流した涙に、少し胸を締め付けられながら。

 その後、前回の記事に書いたとおり、母は深夜に目を覚まし、私の知らないうちに隣の家に回覧板を届けるために外に出たのでした。

 認知症がいかに油断ならない病気であるか、私は思い知ったでのでした。

~つづく~

2022030802

レト「おかあちゃん泣いてたでち?」

 

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2022年3月 6日 (日)

ケーンの介護日記 その2~急転直下~

 3月3日、木曜日。

 朝、5時頃に目を覚ました私は、1時間ほどゲームをして過ごした後、6時ちょっとすぎに1階の居間に降りていきました。

 平日です。仕事に行かなければならないので、朝食をとり、髭を剃ったり顔を洗ったりして、身支度を整えるためです。

 すると、居間の照明が点いていました。

 3月になったばかりの北海道。朝6時頃はまだうっすらと暗く、照明を点けないと周りが見えません。

 おや? と私は思いました。ここ最近は、毎日私が母より早起きで、私が照明を点けて朝食をとっていると、後から母が起きてくる…というのがパターンでした。

 でも、今朝は照明が点いている。珍しく母が早起きしたのかな?

 すると。

「…母さん?」

 母は起きていました。しかし、居間の床に転がって、起き上がろうと懸命にもがいていたのです。

「どうしたの、母さん!?」

「レトに餌をやって、そしたら転んじゃって…起きれないの」

 我が家のもう一羽の家族、セキセイインコのレトのカゴは、昨夜、寝る時にかけた毛布が取り払われていました。いつもは先に起きた私がレトを起こし、餌や水を替えてやるのですが、今朝は母がやってくれたようです。その後、体のバランスを崩して転んでしまった。幸いどこかにぶつかったということはないみたいですが、手足の筋肉が衰えて力が入らないのでしょう、なかなか起き上がれません。

 私は母の手を引っ張って上体を起こさせました。そのまま立たせようとしますが、立てない。無理に引っ張ると「痛い痛い」と言って手を放してしまいます。何度かそれを繰り返しましたが、結局、母は立てませんでした。

 そうしている間にも、時間は過ぎていく。仕事のために家を出なければならない時刻が迫ってきます。私は、とりあえず母を床に座らせたまま、急いで身支度をしました。朝食をとっている暇はありませんでした。

「母さん、大丈夫?」

「うん。大丈夫だから、行っていいよ」

 後ろ髪を引かれる思いで、私は家を出ました。

 

 

 一時間ほどかけて、隣の札幌市にある職場に到着。ほどなく始業のチャイムが鳴り、仕事が始まりました。

 仕事をしながら、何となく私は母のことが気になっていました。

 朝、母は布団から起きて、居間に出てきた。だから、時間はかかるかも知れないけれど、何とか立つことはできるはず。あのまま動けないでいる、なんてことはない。きっと。でも…。

 11時をまわった頃、私は休憩スペースに抜け出し、妹に電話をかけました。4つ離れた私の妹も働いていますが、職場は私の家と同じ市内で、比較的近いところにあります。妹は車通勤なので、その気になれば20~30分で私の家に行くことができる。私は、妹に昼休みに職場を抜け出して、母の様子を見に行ってくれないかと頼みました。というのも、妹に電話をする前、母に電話をかけたのですが、出なかったのです。居間の固定電話にかけても、携帯電話にかけても出ない。

 心配だったのです。妹は事情を聞くと、午後から休暇を取って母の様子を見に行ってくれると言いました。

「助かる。頼むよ」

 そう言って電話を切ると、私は仕事に戻りました。

 妹から電話がかかってきたのは、昼休み中のことでした。

「兄ちゃん? 今、家だけど、母ちゃん玄関にいて」

「え?」

「靴はいて、玄関に座ってるの。レトも。カゴが置いてあって、毛布をたくさんかけてある」

「…ええと、どういうこと?」

 妹が家について玄関のドアを開けると、母が靴をはいて、玄関に座っていたそうです。隣には、毛布を何重にもかけたレトのカゴが。

 どうしたのか問う妹に、母はこう答えたそうです。

「家に戻ろうと思ったの。ここは私の家じゃないから」

 レトも連れて帰ろうと思った。外は寒いから、カゴには毛布をかけた。でも靴ははけたけれど、うまく立てなくて、そしてどうしようかと困っているところに、ちょうど妹が到着した──ということのようでした。

「母ちゃん、ここ母ちゃんの家だよ。外に兄ちゃんの車もあるし」

「うん、不思議なの。家具も間取りも同じなの。でもここ、違うの」

 その後、妹が懸命に説得して、母は居間に戻りました。疲れた、と言って布団に入ったそうです。妹は、心配だからしばらく家にいてくれるとのこと。でも、夕方には娘を迎えに行かなければならない。妹には5歳の娘がいて、日中は保育園に預けているのです。

「わかった。俺も早めに帰るよ」

 私は上司に事情を話し、仕事を2時間早退させてもらうことにしました。

 夕方4時半頃、帰宅。母は布団に入っていましたが、眠ってはいませんでした。

「母さん、どうしたのさ? ここ、俺と母さんの家だよ。他に家なんかないよ」

「うん…そうなんだけど、でも、なんか違うの。おかしいの」

 とにかく寝ているように言うと、母は素直に頷きました。

 5時頃、妹は娘を迎えに帰って行きました。6時に母を起こして夕食。私は料理ができないので、コンビニ弁当です。

「母さん、どう? まだ、ここ自分の家じゃない気がする?」

「うん、なんか、ちょっと違和感がある」

「でも、ここ間違いなく母さんの家だから。外は雪道で危ないし、転んだら起きれないんだから、黙って出ていこうとしちゃダメだよ?」

「…わかった」

 夕食が終わると、レトの放鳥の時間です。レトは喜んでカゴから飛び出してお気に入りの台所にとまります。母は少しだけレトと遊んだ後、7時には「寝る」と言って睡眠剤を飲み、布団に入りました。

 私はホッと胸を撫で下ろしました。大事にならずによかった。知らない間に外に出て、転んで起き上がれなくなっていたら。母もですが、レトも雪の中で凍えていたことでしょう。

 8時になるとレトは自分でカゴに帰っていくので、毛布をかけて寝せます。私は母が眠っている様子をそっと確認すると、居間の照明を消し、2階の自室に上がりました。

 そうして、夜は更けてゆく。私は11時過ぎまでTVゲームをして過ごし、それから睡眠剤を飲みました。明日は金曜日。当然、仕事です。

 下の階から音がしたのは、その時でした。

 それは、玄関のドアが閉まる音。

「まさか…!!」

 昼間のことがあったので、私は慌てて部屋を出て、1階に降りていきました。

 玄関には誰もいない。母の靴もある。ただ、居間の照明が点いているのがドアの隙間から漏れる光でわかりました。ドアを開けると、母は居間にいて、椅子に腰掛けていました。

「…どうしたの、母さん!?」

「うん? ちょっと回覧板をまわしてきたの」

「隣に?」

「うん」

「今、真夜中だよ? もう12時になるじゃない。何で起きてるの? 黙って外に出ちゃダメって言ったよね?」

「だって、目が覚めちゃったし、気になってたから」

 夕方、私が帰ってきた時、回覧板が郵便受けに入っていました。それを取って居間に入ると、もう一つ回覧板がテーブルの上にあるのが見えました。

「ありゃ、回覧板二つになっちゃったな。早くまわしとかないと」

 そう言った私の声を、母は聞いて覚えていたのでした。

 私は自分の軽率な発言を後悔しました。それと、私が気づいたのは母が帰ってきた時のドアの音。出ていく時のドアの音には気づかなかったのです。きっとゲームに夢中になっていたのでしょう。

「外で、また転んじゃった」

 母はそう言って苦笑い。

 私は笑っていられません。よく自力で起き上がって、帰ってこられたものだ。たとえ起きられなくなっても、真夜中のこと、誰も通りかかる人はいません。私だってドアの音がしなかったら1階に降りることなく、そのまま寝ていたかも知れない。3月とはいえ、まだまだ冬の北海道。下手をすれば凍死、ということもあり得たのです。

 それを考えると、背筋が凍る思いでした。

 

 

 認知症。

 母がそうである可能性を、私はほぼ確信していました。

 ただ、母がたとえ認知症であっても、足が悪くうまく歩けない身では、徘徊はない。そう考えていました。これまで、母は転ぶことを怖がって外に出ようとしませんでした。冬、雪道になってからはなおさらです。当面、徘徊はないだろう。自分がどこにいるのかわからなくなったり、道に迷ったりするほどボケてもいないのだから。

 そう思っていたのですが、甘かったようです。

 母はその気になれば、転ぶ危険があっても外に出る。そして母は言ったのです。「ここは私の家じゃない」と。

 それは、母が黙って家からいなくなる危険性を示しているように私には思えました。

 予定では、週明けの3月7日に市役所に行き、要介護認定の申請をするつもりでした。そして、3月10日に病院を受診。検査の結果、認知症ということがはっきりすれば、然るべき診療科を受診することになる。それで大丈夫。そう思っていたのですか、そんなに時間の猶予はないかも知れない、と私は思いました。

 通常、要介護認定の申請から認定、サービス開始までには1ヶ月を要します。事態は、そんなに待っていられるほど悠長じゃない。そう考えた私は、予定を早めることにしたのです。

つづく

2022030502

レト「びっくりしたでち~」

 

2022年3月 4日 (金)

ケーンの介護日記 その1~息子、動く~

※ この記事には、その1の前に「序」があります。まずはそちらをお読みください。

 

 母がちょっと忘れっぽくなり、歩くのが困難になってしばらく。

 2022年が開け、母は75歳になり、私は「うつ病」から回復して、職場に復帰すべく「リハビリ勤務」が始まりました。

「母は認知症かも知れない」

 そう思いながら一緒の暮らしを続けていました。

 季節は冬。雪道になり、歩行困難な母はほとんど外出できません。通院の時はタクシーを使うか、土曜日なら私が車で連れて行っていました。だんだん家事もできなくなり、私は毎日近所のコンビニかスーパーに買い物に行くようになりました。

 朝、昼はパン+フルーツ。夕食はコンビニのお弁当。いちおう栄養バランスを気にして、夕食には必ず野菜サラダを買ってつけていました。

 掃除と洗濯は週に1~2回。それは母が何とかやっていました。

 認知症的な言動は時々あったものの、私や私の妹がサポートできる程度のものでした。それでも、妹も働いているし、私もリハビリ勤務が始まって職場に行って仕事をするようになり、平日の日中は母はどうしても家で一人になります。

 一人で大丈夫かな、と少し心配でした。それである日、私の主治医(精神科医)に母の状況を伝えて相談してみたところ、先生は言いました。

「お母さん、それもう要介護だよそれ」

 やっぱりそうか。

 症状がひどくなる前に市役所に相談して、要介護認定を受けたほうがいい。先生にそうアドバイスされて、3月になったら市役所に行こうと考えていました。

 リハビリ勤務は2月末まで。その間1日でも休んでしまうと、復職の可否を判断する健康審査会で不利に働いてしまい、予定どおり3月1日に復職できなくなる。だからリハビリ勤務が終わって、正式に復職が決まるまでは仕事を休むことはできませんでした。もちろんのこと、市役所は土日には開いていません。復職したら、なるべく早く休暇を取って市役所に行くつもりでした。

 それと、母の転院も考えていました。母は市立病院の精神科に通っていましたが、常々、処方される薬が多すぎるのではないかと思っていました。薬の説明の紙なんて、4枚にもなるんです。母はいつも薬の管理に苦労していて、飲んでいるうちに、どこまで飲んでどれがまだ飲んでいないのか、わからなくなることが時々でした。

「母さん、先生にちゃんと自分のこと話してるの?」

「ううん、あんまり。最近どう? って聞かれて、変わりないですって答えて。そしたら、じゃあいつもと同じように薬出しておくね、って」

 それじゃあ、医者も薬を見直したりしないでしょう。私は母に、2月の受診の時、先生あてのお手紙を持たせました。母の状態をペーパーにまとめ、薬を今の母の状態に合わせて見直してほしい、という内容です。

 それと、私の主治医に言われたことがあります。母が歩行困難なのは、年のせいだけではなく、「パーキンソン病」なのではないか、と。

 もし本当にパーキンソン病だとしたら、市立病院では治療はできません。幸い、近所に民間の大きな精神病院がありました。ホームページを見ると、診療科には神経内科もあって、そこでパーキンソン病の検査や治療もしているようでした。そこへの転院を考えており、ついては紹介状を書いてほしいと、母に持たせた手紙には書いておきました。

 市立病院の受診日。リハビリ勤務から帰ってきた私は、母から主治医に手紙を読んでもらったこと、転院について紹介状を書いてくれると言われたことを聞くと、さっそく翌日、転院先の病院に電話をかけました。事情を説明し、初診には予約が必要だと言われたので、予約。まず精神科を受診し、必要が認められれば神経内科にもかかる、という流れになりました。

 予約日は3月10日の木曜日。それと前後して、市役所にも行きたい。その時にはもう健康審査会で私の3月からの復職が決まっていたので、上司に事情を話し、休暇をもらいました。3月7日(月)に市役所に行って要介護認定の相談・申請、10日(木)に転院先の病院へ。そう予定を組みました。ちなみに市役所で要介護認定の申請をするには、かかりつけ医の意見書が必要ですが、10日に初診予定であることを話すと、それなら先に市役所に来てもらってかまわない、とのことでした。

 そうして日々は過ぎ、3月になって私は正式に職場に復帰しました。

 後は、予定どおり動くだけ。大丈夫、きっとうまくいく。

 そう思っていた矢先。

 事件が起きたのです。

 

 

つづく

20220303

レト「なにがあったのでち?」

2022年3月 2日 (水)

ケーンの介護日記 序

 それは、昨年11月のある日のことでした。

 深夜、そろそろ寝ようと寝ていた私の2階の部屋に、内線電話が。1階のリビングからです。

「何だろう?」

 受話器を取ると、母の声が。

『ごはんできたよ』

「…はい?」

 時刻は夜の11時をとうに過ぎています。夕食は6時頃に食べたし、夜食が要るとも言っていない。それ以前に、母は9時前に床についたはずでした。

 なのに、起きてる。しかも、ごはん??

「いや、いま何時だと思ってるの? ごはんなんて食べないよ」

『でも、だって作っちゃったもの』

 急いでリビングに降りてみると、消したはずの電灯がついて、テーブルに二人分の料理が並んでいる。母は茶碗にごはんをよそっているところでした。

「ちょ、何これ?」

「食べよう?」

 私は驚き、戸惑いながら、どうしてこんな時間にごはんを作ったのか母に聞きました。

「だって、目が覚めたら真っ暗で、もう夜だと思って」

「いや、夜だけどさ、晩ごはんなら食べたでしょ?」

「寝過ごしちゃったと思って、あわてて作ったの。遅くなってごめんね」

「と、時計!! 時計見て!! いま何時だと思ってるの!?」

「もうすぐ12時だねえ」

「でしょ? 母さん時間間違ってない!?」

「ああ、そうだねえ。母さん、晩ごはん作るの忘れたと思って、びっくりして…」

 どうやら母は、夜中に目を覚ました時、いまが夕食の時間で、寝過ごして夕食を作り忘れたと思ったようです。確かに母は、夕方昼寝をして、それから起きて夕食を作りましたが、そのことをすっかり忘れているようでした。

「でも作っちゃったから。もったいないから食べよう?」

 

 

 思えばこれが、母の変化のはじまりでした。

 最初はたまたま寝ぼけたのかな、と思っていましたが、これが一晩で終わらなかったのです。次の日も、そのまた次の日も、母は真夜中に起き出し、晩ごはん(だと本人は思っている)を作って、私を呼ぶのでした。

 どうも寝る前の薬(睡眠導入剤)を飲み忘れているらしい、と気づいたのは数日後のことでした。ちゃんと薬を飲んで寝ると、真夜中に目を覚ますこともなかったのです。それから私は、口が酸っぱくなるくらい「寝る前にはちゃんと薬を飲むんだよ」と母に言い聞かせるようになりました。時には、母が薬を飲むところを見届けてから自室に戻る日もありました。

 以来、私が口癖のように「寝る前に薬!!」と言うので、母が真夜中にごはんを作ることはありません。

 これで一件落着、と私は安心していたのですが…別の変化が、母に見られるようになったのです。

 

 

「また転んじゃった」

 母は買い物に出掛けて帰ってくると、時々そう言うようになりました。幸い骨折などはせず、打撲で済んでいたようですが。

 また、買い物にかかる時間がずいぶん長くかかるようにもなりました。出掛けると、なかなか帰ってこない。私は休職中で日中、家にいましたが、母の買い物に付き合うことはありませんでした。

「買い物行ってくるね」

「ああ。転ばないように気をつけて」

 そう言って見送るのですが、日が暮れてしばらくしても帰ってこないので、ある日、心配になって探しに行きました。母はどこの店に行くとは言いませんが、行くとしたら近所のセブンイレブンかマックスバリュだと当たりをつけて、道なりに探していきます。

 すると。

 道路を挟んで向こう側に、母らしき小さな人影が。駆け寄ると、やっぱり母でした。両手に買い物袋を持っています。

「にいちゃんか」

「母さん。なんか遅いから探しにきたんだよ。転んだりしなかった?」

「うん、今日は転ばなかったよ」

「そっか。よかった」

 ホッとして一緒に歩き出します。母は74歳。年を取ったので、歩みは私より遅い。私は歩を緩めて母と並んで歩こうとしますが、それにしても遅いと思いました。母さん、こんなに歩くの遅かったったけ? 疑問に思いながら、信号が青になったのを見て、横断歩道を渡っていきます。

 母もゆっくりついてきますが、やっぱり遅い。そのうち、青信号が点滅を始めました。私は母の背を押して急がせます。でもスピードは上がらない。とうとう渡りきらないうちに、信号が赤になってしまいました。幸い車は発車せず私たち親子が渡りきるのを待ってくれましたが、信号が青のうちに渡りきれなかったことなど初めてでした。

 数日後、今度は車で母と一緒にイオンへ。店内でも相変わらず母の歩みは遅く、しかも時々ふらつきます。目まいとかではなくて、体のバランスが崩れるというか、そんな感じ。右か左にひっぱられては、壁に手をついて体を支える、ということを繰り返していました。

 ああ、それで転ぶのか。

 私はようやく理解しました。何かにつまずいたりして偶発的に転ぶのではない。体のバランスが取れなくなっているんだ、と。

 さらに。

 ある日、近所でちょっとした騒ぎが起きました。玄関の呼び鈴がなって、私を呼ぶ男性の声がします。私が出ると、近所に住む年配の男性が言いました。

「あんたのお母さん、転んで起き上がれなくなってるよ」

 慌てて外に出ると、ご近所さんたちが母の体を起こそうとしているところでした。誰かが車椅子を持ってきて、なんとか母をそこに座らせます。そのまま、母は家の玄関まで運ばれてきました。

 私が手を貸して立たせ、母を家に入れます。私が頭を下げて謝り、お礼を言うと、ご近所さんたちは「無事でよかった」と去っていきました。母に話を聞くと、買い物帰りに歩いている途中、バランスを崩してうつ伏せに転び、それから起き上がろうと苦労していると、通りかかったご近所さんたちが集まってきたのだそうです。

「いつも、転んだら自分じゃなかなか起きれないんだ。誰かに助けてもらうことが多いんだよ」

 母はそう言って苦笑い。年を取って筋力が衰えて、それで起き上がれなくなったのか。本当にそれだけか。他にも原因があるのか。その時の私にはわかりませんでした。以来、買い物は母一人では行かせず、私が車で連れていくのが日常になりました。

 そして冬、雪が積もって道が悪くなったこともあり、母はほとんど外出できなくなりました。家の中では不自由なく歩ける…わけではありません。時々よろめきますし、派手に転びもします。あちこちぶつけて、母の腕や脚には青あざが絶えません。ただの打撲といっても年を取るとなかなか治らないようで、痛い痛いと言いながら湿布を貼っています。

 そうして、母は家にこもりがちになりました。もともと患っていた「うつ病」のせいもあるのか、だんだんと気力も衰え、寝ていることが多くなりました。買い物は私が一人で行くようになりました。

 

 

 年が明けて母は75歳になりました。

 後期高齢者の仲間入りです。でも、世界有数の長寿国となった今の日本でみれば、老人といってもまだ若いほうでしょう。

 そんな母が、変わっていく。

 これは、「高齢の親を持つ子」となった私ことケーンと母の日々を綴った記録です。

つづく

2022030202

レト「おかあちゃん心配でしゅ~」

 

  

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