あくる日、3月4日、金曜日。
私は少し寝不足気味でした。昨夜のことがあって、なかなか眠れなかったのです。ようやく眠りに落ちたのは、たぶん午前2時近く。そして、目覚めたのは朝の5時頃。最近、年齢のせいか、何時に寝ても、必ず5時くらいに目が覚めるのです。
でも、今日は休暇を取ってある。私は2時間ほど布団の中で惰眠をむさぼった後、7時を回った頃に起き出し、1階の居間に下りました。
セキセイインコのレトを起こしてやり(正確にはカゴにかけておいた毛布を取り払ってやり)、エサを替え、それから自分も朝食のパンを口に運んでいると、母が起き出してきました。
「おはよう、母さん」
「うん」
7時を過ぎてものんびりしている私を見ても、「あれ、仕事は?」とは言いません。かといって私が休暇を取っていることを覚えているわけではなく、つい最近まで私は休職してしばらく仕事に行っていなかったので、母には見慣れた光景なのでした。
「パン食べる?」
「トイレに行ってから」
母がトイレに入っている間に、母の分のパンとミカン、麦茶を用意する。パンはセブンイレブンのこしあんぱん。昔から母はあんぱんが好きなので、いつ食べたがってもいいように、ストックは切らさないようにしていました。
あんぱんを食べる母に、夕べの深夜の出来事を覚えているか尋ねてみます。案の定、母の記憶にはありませんでした。それ以上は追求せずに、私は母に今日の予定を伝えました。
午前中に、小規模多機能事業所(難しいので母には福祉の施設とだけ伝えました)のスタッフの人が来ること。それが終わったら、私は午後、市役所に行って母の要介護認定の申請をしてくること。
母の顔が曇りました。
「母さんは、どうすればいいの」
小規模多機能事業所のスタッフが何をしに来るのか、何か難しい話をしなければならないのか、少し不安そうです。
「母さんの様子を見に来るんだよ。専門の人がね。でも大丈夫、難しい説明は俺がするから、母さんは聞かれたことに答えればいいよ」
「そうなの」
「そう。母さんあんまり説明うまくないでしょ? それは俺が引き受けるから、大丈夫。気楽にしてて」
「うん」
それから母の視線は、TVの画面へ。我が家の朝は、決まってフジテレビの「めざましテレビ」です。画面ではお天気キャスターのお姉さんが、にこやかに全国の天気を説明しているところでした。
札幌は晴れ。そっと窓を見ると、札幌に隣接するこの街の空も、きれいに晴れているようでした。
朝食後、母はもう少し寝ると言って自分の部屋へ。私もカゴの中のレトを少しかまってから、いったん自室に戻って着替えをします。さすがに部屋着のままじゃ失礼だろうし、午後には市役所に出掛けるんだからと、ジーンズに厚手のシャツといった格好になりました。
9時過ぎ。玄関のチャイムが鳴って、妹が顔を出します。妹も、午前中は休暇を取っていたのでした。
母はまだ布団の中。10時に小規模多機能事業所のスタッフが来るので、そろそろ起こして身なりを整えさせなければなりませんが、その前に私は妹に昨夜の出来事をざっと説明しました。
「そっか。危なかったね。無事でよかった」
妹は心配と安堵が入り混じった表情でそう言いました。
それから、母を起こしに行きます。「M子(妹の名前)も来たの」と言いながら、ゆっくり起きようとする母。でも、手足に力が入らないのか、なかなか起きれません。「うん。来たよ」と笑顔で答えながら、妹は母に手を貸して起こしてやりました。
母の着替えが終わり、そろそろ10時になろうかという頃、居間の固定電話が鳴りました。私が出ると、女性の声が。
『小規模多機能ホームY(施設の名前)です。もうすぐお宅に着きます』
「わかりました。お待ちしてます」
そうして現れた女性は、Oと名乗りました。名刺を差し出すので受け取ると、肩書は「ケアマネジャー」とありました。
ケアマネジャーさんが来たのか。私はちょっと驚きました。電話の声が優しげでほんわかしていたので、何となくヘルパーさんかな? と思っていたのです。見ると、マスクで顔立ちはよくわかりませんが、優しげな目許は笑顔です。この人がケアマネジャー。
ケアマネジャー(介護支援専門員)は立派な国家資格です。介護を必要とする人が最適な介護サービスを受けられるように、ケアプラン(計画)の作成や介護事業所との調整を行う、介護保険のスペシャリスト。私は若い頃、福祉の職場にいましたが、介護保険制度ができたばかりのその頃、先輩のベテラン職員(主に係長職)が何人か、ケアマネジャーの資格試験に挑んでいたのを覚えています。
なのでケアマネジャーと言えばちょっと年齢が上の、お堅い役人ふうの男性──そんなイメージがあったのですが、目の前の女性はたぶん私より年下でしょう。時代が変わったのか、それとも単に私のイメージが古すぎるのか。
ともかく、専門職の人が来てくれたのはありがたい。居間に招き入れると、Oさんはにこやかな声で母に挨拶しました。よろしくお願いします、と名刺を差し出す。母はそれを受け取って、「よろしくお願いします」と返事。警戒している様子はありませんでした。
各々席についたところで、
「具合はどうですか、お母さん」
「はい…それがなかなか…」
笑みを浮かべながら言いよどむ母の隣から、私が1枚のペーパーをOさんに差し出しました。
「ここに、最近の母の様子をまとめておきました。よければこっちにまず目を通してくれますか」
それは先日、私が母に持たせた、市立病院の主治医あての手紙の添付資料でした。仕事の合間、職場のパソコンを使って作成しておいたものです。母が市立病院を受診した後の情報も追加した、言わばバージョン2です。午後から行く予定の市役所でも使おうと思って、2部用意しておいたのでした。このあたりは長年の事務職員としての経験が生きています。もちろん、昨日の昼、母が突然家を出て行こうとしたことも内容に追加してありました。
うん、うんと小さく頷きながらペーパーを読み進めるOさん。それから私は、昨日の深夜の出来事を話します。
「母さん、ほんとにそんなことしたの?」
母はやっぱり思い出せない様子。私は「そうなんだよ」と頷きました。
「状況はわかりました。今日、息子さんが市役所に行くんですね?」
「はい。午後から行って、要介護認定の申請をしてきます」
「それなら大丈夫です。介護サービスは認定前でも申請日にさかのぼって利用できますから、今日からでもサービス開始できます」
なるほど、遡及適用か。役所用語で理解する私。申請から認定まで1ヶ月かかるとしても、ちゃんと緊急性には対応できるように制度設計されているのだ。さすがに国が鳴り物入りで導入した制度。抜け穴はないというわけか。
そして、Oさんが取り出したのは小規模多機能ホームYのパンフレット。
小規模多機能事業所はその名のとおりスタッフの数も利用者の数も小規模で運営されているが、小規模だからこそ、みんなが「顔なじみ」になり、安心で親密な関係性を築けるのが利点だといいます。なるほど考えられているな、と私は思いました。今まで家に閉じこもり気味だった母が、いきなり大勢の人の中に飛び込むのはハードルが高い。おそらく交代で来てくれることになるであろうヘルパーさんにしても、毎日毎日知らない顔がやってくるのでは利用者は安心できない。そこをフォローできるのが、小規模事業所というわけです。
「うちには、通所、訪問、宿泊という三つのサービスがあります」
専門用語で言い換えれば、デイサービス、訪問介護、ショートステイといったところか。仕事柄、専門用語に慣れていた私はすぐに理解しましたが、もちろん母はそうではありません。ケアマネジャーのOさんは丁寧に、通所、訪問、宿泊の三つのサービスの内容を説明していきました。
パンフレットにももちろんそのことが書いてありましたが、「通所」の文字だけ太字で大きい。たぶんこれがメイン事業なのでしょう。
「通所といっても、小規模ですから定員は15名です。見知った顔の仲間で、楽しくおしゃべりしたり、お食事をしたり、レクリエーションをしたりするんですよ」
「あ、えーと」
そう口を挟んだのは私です。
いくら小規模でも、今の母が集団の中に入っていくのは無理がある、と私は考えていました。もちろん自宅まで送迎してくれるというし、利用時間中はスタッフが見てくれているというから不慮の事故もないだろう。
それでも。
「家族としては、ゆくゆくは施設に通って、家族以外の人と触れあって元気になってほしいと思ってます。いつも見る顔が私とか妹とか、家族だけだと、どうしてもマンネリというか、刺激にならないと思うんですよね」
それは私の経験に基づく発言でした。私も「うつ病」がひどくて家にこもっていた頃は、顔を合わせるのは同居の母か、時々顔を見せる妹とその夫、娘くらいでした。さらにひどい時には、妹一家の顔を見るのも苦痛でした。働きもせずひきこもっている私に比して、妹もその夫も社会人としてきちんと働いている。その娘──私にとっては姪──も、元気に保育園に通っている。その落差がどうしようもなく辛くて、情けなくて、情けない自分を見られるのが嫌でした。
でも、良い薬に出会って調子が上向いて、リハビリ勤務に入って職場に通うようになると、他人と接することがとても楽しく、刺激になりました。ちょっと言葉を交わすだけでもいい。内容も必ずしも楽しくなくても、それこそミスを指摘される内容でもいい。回復して戻った「社会」は何もかもが新鮮で、心地好い刺激に満ちていました。その刺激が、さらに自分を元気にしてくれる実感がありました。
だからいずれ母にも、「社会」に戻って欲しい。もちろん働けという意味ではありません。狭苦しい家から歩み出て、心地好い刺激に満ちた世界に触れて欲しいのです。きっとそうすることで、たとえ認知症が治らないとしても、少なくとも「うつ」からは回復できる。世界はこんなにも優しいんだ、とうことに気づくことができれば、きっと元気になれる、と、私はそう思っていました。
でも、今はダメだ。再び世界に踏み出すには入念な準備と、少しの勇気が要る。そのどちらもが今は不十分だ。タイミングを誤ると、世界は簡単に顔を変える。外にはただただ辛いことしかなく、家の中の、自分の部屋の中だけが唯一安心できる場所──そんなふうにしか考えられないようになってしまう。まして今の母には、その「唯一安心できる場所」すらないのだ。今の母にとって、ここは自分の本当の家ではないのだから。
今の母に必要なのは「安心」だ。接するのは普段から見慣れている家族と、見知った顔に限定したほうがいい。そうして穏やかに心の回復を待ちつつ、徐々に「安心できる世界」を広げてゆくのだ。
それが、若い頃に福祉に携わり、自分も「うつ」を経験した私が描いたロードマップでした。
「だから、まずお願いしたいのは「訪問」なんです。1日に1回でいい。私や妹の目が行き届かない時間帯に、母の様子を見に来てくれる人が欲しい。日中、母は孤独なんです。レトはいますけど、残念ながらレトは人の言葉が話せないので…」
これは家族のエゴかも知れない、という思いがありました。見守り、と言えば聞こえはいいが、要するに母を監視したいだけではないのか。他人に母を監視させておいて、自分が安心を得たいだけではないのか。
でも、この際エゴでも何でもいい。母を失いたくない。その思いだけは本当です。いや、それすら「自分に代わって家事をしてくれる存在を失いたくない」というエゴかも知れない。でも、それでもよかった。母がいてくれるのなら、自分の動機が何であろうと構いませんでした。
こちらの意向を、ケアマネジャーOさんは理解してくれました。
「それでは、戻ってケアプランを作成してみます。それを見ていただいて、正式にサービスの内容を決めましょう。いつがよろしいですか?」
私はざっとカレンダーを見ます。今日から土曜日、日曜日は私がいるから大丈夫だろう。月曜日は…もともと休む予定だったが急遽、今日に変更したので休めない。もともと今の職場は、週明けの月曜日は忙しいのです。次に休暇を押さえてあるのは、3月10日、母を病院に連れて行く日だ。初診で、しかも認知症の検査がある10日の診察は、ぜひとも家族の同伴が必要だと病院から言われていた。
「わかりました。それでは、10日の午後にまたお邪魔して、ケアプランの提案をさせていただきますね」
3月10日は木曜日。介護保険のサービスは要介護度に応じて、決められた限度額の範囲内で設定されます。まだ母は要介護の認定を受けてはいませんので、Oさんは今日聞いた話を基にして要介護度を想定し、限度額やサービスの料金を考慮してケアプランを作成することになります。一両日中にはできないだろうし、計画の作成には精確な病状の把握も必要になるでしょう。10日午前の医師の診断の結果を病院から入手し、プランを完成させる──そういうことになるのだろうと私は見当をつけました。
では、月曜日から水曜日までの3日間はどうするか? 考えていると、Oさんから意外な申し出がありました。
「それまでの3日間は、私が来ますので」
「え、いいんですか?」
「はい、大丈夫です。お母さん、月曜日から私、お昼頃に来ますから、よろしくお願いしますね」
さすがにプロ。抜け目がありません。こちらの心配はとっくにお見通しなのでした。
一通り予定を確認すると、ケアマネジャーOさんは帰って行きました。
「あの人が、これから来るの?」
「そうだよ。木曜日までは、Oさんが毎日来てくれるって。優しそうな人で良かったね」
「でも、私、特に手伝ってほしいこともないし…」
「Oさんはヘルパーとは違うんだよ。まあ正式にサービス開始になったらどういう人が来るのかはちゃんと確認しなきゃと思うけど、ヘルパーさんじゃないから、別に無理に家事をやってもらわなくてもいいの」
「そうなの…?」
「うん。様子見に来るだけだから、リラックスして、楽しくおしゃべりでもしてればいいよ」
納得したのかしないのかわからない顔を母はしましたが、それ以上は言わず、「疲れたから寝る」と言って布団に入っていきました。
それから私と妹は小規模多機能ホームYのパンフレットなどを見直したりして過ごし、昼食を取りました。母は「いらない」と言って布団から出てきませんでした。初対面の人とけっこうな時間話したので、だいぶ疲れたのでしょう。
12時半頃、妹は「じゃあね」と言って仕事へ行きました。
私は少し自分の部屋で休憩してから、14時過ぎに布団の中の母に声をかけました。
「それじゃあ、市役所行ってくるから。ついでに晩ごはん買ってくるつもりなんだけど、何か食べたいものある?」
「んんー…特に…」
「思いつかない?」
「うん…」
「じゃあご飯ものか麺類か、それだけ決めて?」
ご飯かなぁ、と母が言ったので、じゃあ適当にお弁当買って来るね、と言い置いて、私は家を出ました。
もちろん、勝手に一人で外に出たらダメだよ、と念押しすることは忘れませんでした。
車で5分も走れば、市役所に着きます。
平日の午後。市役所1階正面は戸籍や住民票などの窓口ですが、けっこう人がいました。3月から4月は、人の移動が多い時期。学校への入学や人事異動などに伴い、住所を移す人が多いのでしょう。
目指す介護保険課は、同じ1階の、廊下を渡った奥にありました。手近な職員に声をかけて用件を告げると、カウンターの席に案内されました。
「今、担当の者が参りますので」
「はい」
程なくして、若い女性職員が一人と、少し年上と見られる男性職員一人がやってきました。話し出したのは女性職員のほう。男性職員は女性職員が書類を見ながら時々質問すると、小声でアドバイスする。
ふむ、女性職員は新人さんなんだな、と私は察しました。こちらの用件は重大なので、正直なところベテラン職員に対応して欲しかった気持ちはありますが、仕事をする中で、誰にでも新人時代はあるものです。そして、経験を積まないと新人は育たない。そのくらいはわかっているので、ここはわがままを抑えて新人さんのがんばりに期待します。多少時間がかかったとしても、そこはまあ大目に見ましょう。
事前に用意しておいたペーパーが、ここでも大いに役に立ちました。こちらの状況説明は最低限で済み、すぐに要介護認定の申請手続きに入ります。申請書に必要事項を記入し、必要書類(保険証など)を添えて提出。女性職員がそれを持っていったん下がると、残った男性職員と軽く雑談。
「大変でしょう、福祉の職場。実は私も昔、福祉に携わっていたことあるんですよ。役所づとめなんで」
「みたいですね(←申請書の職業欄に「公務員」と書いたのをしっかり見ていた)。今はどちらの職場に?」
「戸籍住民課です」
「それじゃあ、そちらこそ今時期大変でしょう。年度末が近いから」
「いやあ、戸籍住民課でも戸籍のほうですからね。住民票のほうは人が移動する時期なので忙しいですけど、戸籍はそこまででは」
などと役所トークに花を咲かせていると、女性職員が戻ってきて、申請を受け付けたことを告げ、保険証を返してくれました。それから今後の手続きの説明。新人さんだからとつい上から目線で見ていましたが、なかなか説明もてきぱきとしてわかりやすい。申請後、専門の職員が訪問調査に来るのですが、調整の結果、3月22日の午後ということになりました。いちばん早い予約は22日の午前中ですが、22日は三連休明けの初日。午前中が特に忙しく、休暇が取れない可能性があったので、午後にしたのです。なんとか上司を説得して、せめて午後休は取らせてもらうつもりでした。
それから介護サービスの利用についての一般的な説明を受けて、申請手続きは終了となりました。
本日の任務を無事に終えた私は、これで事態が好転していくことを祈りながら、帰宅の途についたのです。
その日の夜、無事にレトと母が寝るのを見届けた私は、2階の自分の部屋へ。
携帯を見ると、1件のメールが。妹からでした。
「しっかり者の兄がいて幸せだわ。頼りにしてます!!」
そして、
「きっと大丈夫、うまくいくよ」
と。
「そうだね」
と、私は心の中で妹に向けて呟きました。
打てる手は全部打った。可能な限り早く。だから大丈夫、きっとうまくいく。
「それにしても、しっかり者の兄、か…」
思わず、苦笑いがこぼれます。
妹よ、俺はしっかり者なんかじゃない。基本的に面倒くさがりで怠け者だし、家事なんてぜんぜんできないし、人見知りで引っ込み思案で、気が小さくて。社会に出たら「うつ病」で出世街道から一気に転げ落ち、休職と復職とをさんざん繰り返してきた問題児だ。
昔、先輩職員から冗談交じりに言われたことがある。俗にいう「じんざい」には、3種類あるんだ、と。
普通の「人材」。
いてくれることが有難い「人財」。
そして、いることが迷惑な「人罪」。
「お前は将来、どれになるだろうな?」
先輩職員は俺が「人財」になることを期待して、いや、「人財」になれと励ます意味で言ってくれたのだと思う。
でも、今までの俺は間違いなく「人罪」だ。役所づとめならばなおのこと。税金から給料をもらっておきながら、休職してばかりで、ぜんぜん社会に貢献してこなかった。むしろ市民の血税を食いつぶして生きてきたんだ。
でも、それでも。
それでも、これからはせめて「人材」になりたい。給料分の仕事はする。1対1。等価交換。親にはこれまで育てられた分、同じだけ恩を返す。できればそこに+1できればなおいい。職場にも親にも、-1どころではない負債があるのだから。
父さんには恩を返せないまま逝かれてしまった。だからせめて、母さんには。
これは俺の借金返済なんだ。借りた金を踏み倒す人間には、なりたくないだけなんだよ。
膨れ上がった借金を、完済できるかどうか、まだわからない。完済する前に終わってしまうかも知れない。職場には退職という、親には死という明確なタイムリミットが存在するのだから。
だから、俺は走る。走って、タイムリミットまでにできるだけの借金を返す。今がその「スタートライン」なんだ。
そんなことを思いながら、眠りにつくのでした。
~つづく~

レト「にいちゃん、よ~い、どん!! でち!!」
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