ケーンの介護日記 その2~急転直下~
3月3日、木曜日。
朝、5時頃に目を覚ました私は、1時間ほどゲームをして過ごした後、6時ちょっとすぎに1階の居間に降りていきました。
平日です。仕事に行かなければならないので、朝食をとり、髭を剃ったり顔を洗ったりして、身支度を整えるためです。
すると、居間の照明が点いていました。
3月になったばかりの北海道。朝6時頃はまだうっすらと暗く、照明を点けないと周りが見えません。
おや? と私は思いました。ここ最近は、毎日私が母より早起きで、私が照明を点けて朝食をとっていると、後から母が起きてくる…というのがパターンでした。
でも、今朝は照明が点いている。珍しく母が早起きしたのかな?
すると。
「…母さん?」
母は起きていました。しかし、居間の床に転がって、起き上がろうと懸命にもがいていたのです。
「どうしたの、母さん!?」
「レトに餌をやって、そしたら転んじゃって…起きれないの」
我が家のもう一羽の家族、セキセイインコのレトのカゴは、昨夜、寝る時にかけた毛布が取り払われていました。いつもは先に起きた私がレトを起こし、餌や水を替えてやるのですが、今朝は母がやってくれたようです。その後、体のバランスを崩して転んでしまった。幸いどこかにぶつかったということはないみたいですが、手足の筋肉が衰えて力が入らないのでしょう、なかなか起き上がれません。
私は母の手を引っ張って上体を起こさせました。そのまま立たせようとしますが、立てない。無理に引っ張ると「痛い痛い」と言って手を放してしまいます。何度かそれを繰り返しましたが、結局、母は立てませんでした。
そうしている間にも、時間は過ぎていく。仕事のために家を出なければならない時刻が迫ってきます。私は、とりあえず母を床に座らせたまま、急いで身支度をしました。朝食をとっている暇はありませんでした。
「母さん、大丈夫?」
「うん。大丈夫だから、行っていいよ」
後ろ髪を引かれる思いで、私は家を出ました。
一時間ほどかけて、隣の札幌市にある職場に到着。ほどなく始業のチャイムが鳴り、仕事が始まりました。
仕事をしながら、何となく私は母のことが気になっていました。
朝、母は布団から起きて、居間に出てきた。だから、時間はかかるかも知れないけれど、何とか立つことはできるはず。あのまま動けないでいる、なんてことはない。きっと。でも…。
11時をまわった頃、私は休憩スペースに抜け出し、妹に電話をかけました。4つ離れた私の妹も働いていますが、職場は私の家と同じ市内で、比較的近いところにあります。妹は車通勤なので、その気になれば20~30分で私の家に行くことができる。私は、妹に昼休みに職場を抜け出して、母の様子を見に行ってくれないかと頼みました。というのも、妹に電話をする前、母に電話をかけたのですが、出なかったのです。居間の固定電話にかけても、携帯電話にかけても出ない。
心配だったのです。妹は事情を聞くと、午後から休暇を取って母の様子を見に行ってくれると言いました。
「助かる。頼むよ」
そう言って電話を切ると、私は仕事に戻りました。
妹から電話がかかってきたのは、昼休み中のことでした。
「兄ちゃん? 今、家だけど、母ちゃん玄関にいて」
「え?」
「靴はいて、玄関に座ってるの。レトも。カゴが置いてあって、毛布をたくさんかけてある」
「…ええと、どういうこと?」
妹が家について玄関のドアを開けると、母が靴をはいて、玄関に座っていたそうです。隣には、毛布を何重にもかけたレトのカゴが。
どうしたのか問う妹に、母はこう答えたそうです。
「家に戻ろうと思ったの。ここは私の家じゃないから」
レトも連れて帰ろうと思った。外は寒いから、カゴには毛布をかけた。でも靴ははけたけれど、うまく立てなくて、そしてどうしようかと困っているところに、ちょうど妹が到着した──ということのようでした。
「母ちゃん、ここ母ちゃんの家だよ。外に兄ちゃんの車もあるし」
「うん、不思議なの。家具も間取りも同じなの。でもここ、違うの」
その後、妹が懸命に説得して、母は居間に戻りました。疲れた、と言って布団に入ったそうです。妹は、心配だからしばらく家にいてくれるとのこと。でも、夕方には娘を迎えに行かなければならない。妹には5歳の娘がいて、日中は保育園に預けているのです。
「わかった。俺も早めに帰るよ」
私は上司に事情を話し、仕事を2時間早退させてもらうことにしました。
夕方4時半頃、帰宅。母は布団に入っていましたが、眠ってはいませんでした。
「母さん、どうしたのさ? ここ、俺と母さんの家だよ。他に家なんかないよ」
「うん…そうなんだけど、でも、なんか違うの。おかしいの」
とにかく寝ているように言うと、母は素直に頷きました。
5時頃、妹は娘を迎えに帰って行きました。6時に母を起こして夕食。私は料理ができないので、コンビニ弁当です。
「母さん、どう? まだ、ここ自分の家じゃない気がする?」
「うん、なんか、ちょっと違和感がある」
「でも、ここ間違いなく母さんの家だから。外は雪道で危ないし、転んだら起きれないんだから、黙って出ていこうとしちゃダメだよ?」
「…わかった」
夕食が終わると、レトの放鳥の時間です。レトは喜んでカゴから飛び出してお気に入りの台所にとまります。母は少しだけレトと遊んだ後、7時には「寝る」と言って睡眠剤を飲み、布団に入りました。
私はホッと胸を撫で下ろしました。大事にならずによかった。知らない間に外に出て、転んで起き上がれなくなっていたら。母もですが、レトも雪の中で凍えていたことでしょう。
8時になるとレトは自分でカゴに帰っていくので、毛布をかけて寝せます。私は母が眠っている様子をそっと確認すると、居間の照明を消し、2階の自室に上がりました。
そうして、夜は更けてゆく。私は11時過ぎまでTVゲームをして過ごし、それから睡眠剤を飲みました。明日は金曜日。当然、仕事です。
下の階から音がしたのは、その時でした。
それは、玄関のドアが閉まる音。
「まさか…!!」
昼間のことがあったので、私は慌てて部屋を出て、1階に降りていきました。
玄関には誰もいない。母の靴もある。ただ、居間の照明が点いているのがドアの隙間から漏れる光でわかりました。ドアを開けると、母は居間にいて、椅子に腰掛けていました。
「…どうしたの、母さん!?」
「うん? ちょっと回覧板をまわしてきたの」
「隣に?」
「うん」
「今、真夜中だよ? もう12時になるじゃない。何で起きてるの? 黙って外に出ちゃダメって言ったよね?」
「だって、目が覚めちゃったし、気になってたから」
夕方、私が帰ってきた時、回覧板が郵便受けに入っていました。それを取って居間に入ると、もう一つ回覧板がテーブルの上にあるのが見えました。
「ありゃ、回覧板二つになっちゃったな。早くまわしとかないと」
そう言った私の声を、母は聞いて覚えていたのでした。
私は自分の軽率な発言を後悔しました。それと、私が気づいたのは母が帰ってきた時のドアの音。出ていく時のドアの音には気づかなかったのです。きっとゲームに夢中になっていたのでしょう。
「外で、また転んじゃった」
母はそう言って苦笑い。
私は笑っていられません。よく自力で起き上がって、帰ってこられたものだ。たとえ起きられなくなっても、真夜中のこと、誰も通りかかる人はいません。私だってドアの音がしなかったら1階に降りることなく、そのまま寝ていたかも知れない。3月とはいえ、まだまだ冬の北海道。下手をすれば凍死、ということもあり得たのです。
それを考えると、背筋が凍る思いでした。
認知症。
母がそうである可能性を、私はほぼ確信していました。
ただ、母がたとえ認知症であっても、足が悪くうまく歩けない身では、徘徊はない。そう考えていました。これまで、母は転ぶことを怖がって外に出ようとしませんでした。冬、雪道になってからはなおさらです。当面、徘徊はないだろう。自分がどこにいるのかわからなくなったり、道に迷ったりするほどボケてもいないのだから。
そう思っていたのですが、甘かったようです。
母はその気になれば、転ぶ危険があっても外に出る。そして母は言ったのです。「ここは私の家じゃない」と。
それは、母が黙って家からいなくなる危険性を示しているように私には思えました。
予定では、週明けの3月7日に市役所に行き、要介護認定の申請をするつもりでした。そして、3月10日に病院を受診。検査の結果、認知症ということがはっきりすれば、然るべき診療科を受診することになる。それで大丈夫。そう思っていたのですか、そんなに時間の猶予はないかも知れない、と私は思いました。
通常、要介護認定の申請から認定、サービス開始までには1ヶ月を要します。事態は、そんなに待っていられるほど悠長じゃない。そう考えた私は、予定を早めることにしたのです。
つづく
レト「びっくりしたでち~」
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